BACK
HOME
Get FLASH PLAYER
2006年1月9日
リモコン

 同時に異なる二方向に回転する様子に魅力を覚えたのは,ミュンヘンオリンピックの鉄棒で塚原光男がムーンサルトを決めたのをテレビで見たときだ。それ以降だと思うが,いろいろなスポーツで回転に捻りを取り入れた技が開発され華やかに演じられてきた。
 いくら興味があってもこれはとても素人にできるものではないが,回転のおもしろさだけに限るとテレビなどのリモコンで同じようなことができる。スポーツで演じられる捻り技の場合は,腰や腕などの関節部分の動きが縦回転に対して別の捻りという回転を後から加えているように見えてしまうが,リモコンだと板状なので二種類の回転が対等に見えるように回すことができる。
 右下の隅に親指をかけ対角線方向を縦に見てそこが回転面になるようにほどよく放り上げると,縦にも横にも一回転ずつして手のひらに落ちてくる。これより親指の幅分くらい向こうを持って少し強めに投げると,今度は縦に一回転,横に二回転してリモコンは手元に戻ってくる。持つ位置を変えるだけでもっと複雑な回転の組み合わせが可能だが,回転の変化に目が付いて行かず面白味に欠ける気がする。
 こういった板による回転はそこにねじられた空間を出現させ,空間がいかに自由なものであるかを示しているように思える。

2006年1月16日
BBS開設

 BBS(掲示板)を開設した。これも全面的に奥谷(パズライトゾーン)さんのお世話になってしまった。
 このサイトがネットの検索に引っかかることは滅多にないと思われるので,見ず知らずの人の書き込みは期待薄だが,URLを知っている人からの書き込みは収拾がつかないくらい集まることになると思うので,非常に楽しみだ。
 皆さんよろしくお願いします。
(BBSにアクセスしても,「工事中」のページが開いてしまう場合は,ブラウザのキャッシュを空にするなどして何度か試みてください)

2006年1月23日
踊り場
踊り場

 ビルやマンションで階段を使うと,踊り場に着くたびに体を180度方向転換しなくてはならない。特に下りで少し急いでいる場合などは踊り場で2,3歩ステップを踏んだだけで次の階段に足を運ぶので急激に曲がることになる。
 普段歩くときはゆっくりでも急ぎでも腕は自然と前後に振られる。階段でも同様で,腕はいつも前後に振られている,と思っていたら,踊り場で曲がるときは違っていた。これはごく最近気付いたことだが,曲がるときには遠心力が働くので,腕は真横に振れているのだ。羽ばたくように。
 デパートなどの増築で,床の継ぎ目に1,2センチメートル程度のほんのわずかな段差ができていてるのを知らずに低いほうへ足を踏み出したとたん,何が起こったのかを思うほど驚くことがある。このような予定調和が崩れて日常に破れ目が生じる瞬間は非常に亜空間的な状況だと言えるのだが,踊り場で腕を横に振ってしまう現象は少し違っていて,何しろその行為にまったく気が付かない。
 だが,この事実を知ってしまうと,階段で曲がるたび,本人の意識とは無関係に動く腕の振る舞いに可笑しさすら感じてしまう。

2006年2月18日
引き紐

 夕日がちょうど沈んだところで,細めに開けられたカーテンの隙間から見える空はまだ明るさを十分に残している。照明がまだ点いていない薄暗い部屋で,本棚から目を離してそのカーテンが掛かる窓の方を向いたときのことだ。天井の蛍光灯から垂れる紐の先の引き手が目に入ったが,それはずいぶん拡大されていてカーテンの隙間から見える空を背景に大きく揺らいでいる。顔や体をなるべく動かさないようにして見続けていると,引き手は空間をかき乱すかのような奇妙な動きをして私の目を釘付けにした。
 このときは暗い室内から急に明るい窓の方を向いたため,視線と焦点が反射的に窓に合ってしまったのだろう。その場合普通なら目の前にぶら下がる引き手は二重に見えていたはずだが,片方の目に映る像が窓の明かりを背景にくっきり見えているのに対し,もう一方の目に映る像は暗いカーテンと偶然に重なったために目立つ方だけが意識されたのだと思う。
 これはほとんど単眼視の状態で,目から引き手までの距離が不確定になるために焦点が合っている窓を基準に引き手を見てしまうことになる。その結果わずかな首の動きにも窓に比べてずっと近くにある引き手は大きく移動して見え,不思議な空間を演じることになったのだ。

2006年3月18日

 現在の住まいは盆地にあるせいかよく霧が発生する。朝起きて窓の向こうの近くの建物が見えないくらいの霧の日はせめて電車に乗るまでは消えないでくれと願ってしまう。霧には,白いベールで覆われた幻想的な景色そのものにも魅力を感じるが,霞む世界の中での物との出会いかたのほうにもっと関心を引かれる。徒歩で駅に向かう10分たらずの時間と電車に乗ってから山を越えて霧が消え去るまでの15分間くらいが非常に楽しみだ。
 歩いていても乗り物に乗っていても遠くから近づいてくる物の動きは,普段の生活では,逐一見て取れていて,それらは予定調和的な動きをして視野から去っていく。ところが,霧の日は出現の仕方が唐突で,いつもなら何十メートルも先から察知しているはずの人や物が数メートルの距離に不意に出現し急激に接近してくる。特に電車では顕著で,電柱や信号や踏切などが突然目前に現れ次の瞬間後方に去っていく。
 この状況は夢の中での人や物の現れ方とよく似ていると思う。つまり,現像中のフィルムや湯気でくもる鏡から現れる自分の顔のようにじわっと明瞭になってくるのではなく,気が付くと知らない間にそこにあったといった出現の仕方をする。
 ことによると,日常生活での物との出会いも時系列の上にあるのではなく,唐突な物を時系列に乗せ整合性を付けることで何食わぬ顔をして過ごしているだけではないだろうか。少なくとも,振り返った瞬間や鏡を覗いた瞬間にそのような感じを抱くことがあるのは事実だ。

2006年3月27日
碍子
碍子

 今日のニュースで,戦艦大和の引き上げ時に見つかった碍子(がいし)が公開されていた。
 これまで気が付かなかったが,この種の碍子では二方向のワイヤーが接触しないように互いに輪の中を通る仕組みになっている。碍子を抜き去ったこのワイヤーの状態はまさに亜空間で,互いの空間を貫き合っている。

 

 

 

2006年4月3日
電車の影

 日の光を横から受けて走る電車の線路脇に伸びた影は見る者に様々な楽しみを提供してくれる。影は線路沿いの建物に出会っては立ち上がり,田畑では長く遠くまで横たわるというように視線がついて行けないほど目まぐるしく変幻自在にふるまう。日がさらに傾いてほとんど真横から照らされているときは電車の左右の窓を光が貫くが,乗客が少ないと変化し続ける電車の影の中に窓枠で囲まれた自分のシルエットを発見して驚かされることがある。
 だが,やはり電車の連結部分の影による現象が一番おもしろいと思う。連結部分は前後の車両の影に挟まれてV字型に日が当たっている。それが線路脇の生い茂る雑草の上を通過すると,強風に煽られた炎や波頭を思わせる何ともすさまじい変化の様相を見せる。
 私たちは注目する箇所に視線を向けていてもその周辺も含めて視界にとらえているため,自分が動いたり対象物が近づいてきたりする場合でも予め準備された光景がいつも視野の中央に現れることになる。しかし,この電車の連結部分の影による現象では,影と日の当たったV字型部分とのコントラストが強く,連続して同じ景色が移動しているようにはとらえきれない。その結果,影の中にあった景色が次の瞬間には照らされた場所に唐突に現れるいう不連続な場面が高速で演じられ猛烈に荒れ狂った動きを見ることになる。

2006年4月11日
めまい

 ユロさんがMixiで書かれていた右往左往するアリの群れや伊藤若冲の緻密かつ濃密な描写に視線を奪われたとき催すめまいは,短時間に流れ込んだ大量の情報を処理仕切れないために生じる症状ではないかと思う。
 服などの縫い目の一つ一つを順に目で追って行こうとすると,すぐに単純な作業に飽きたかのように視線の動きは飛び飛びになったり行ったり来たりと徘徊してしまう。これを鉛筆の先で縫い目を差して線に沿うように鉛筆を滑らせ,強制的にその動きに従って視線を送るとめまいが生じる。
 私たちは,縫い目などの細かいものを見るとき視線が飛び飛びに動いていることにほとんど気が付かずその視野の全体をとらえていると思いこんでいる。逆に考えると,私たちの情報処理能力の限界がそのあたりにあり,その程度で済まされるものとして世界を把握したことにしているのではないだろうか。ユロさんにはきっと見入るという行為を持続して楽しめるまれな能力が備わっているのだろう。
 次に,めまいが生じる別の例を挙げることにする。
 交通量のあまり多くない道を渡るとき,普通は安全を確認するために軽く左右に視線を送って歩を進める。それを意図的に左右の道のずっと先まで見やるようにすると軽いめまいが生じる。目の前から遠方までの状況を同時にとらえようとすることで生じる情報量の爆発が処理能力の限界を超えるからではないかと思う。また,エレベーターを待っていて,ガラスのドア越しにエレベータの姿が見えた瞬間,血の気が引くような感じがしてめまいを催す。これは私の個人的な条件反射だと思うが。

2006年5月4日
煙感知器
煙感知器

 東京でしばしば利用するホテルの天井には写真のような煙感知器か何かのセンサーが設置されている。ベッドに横たわるとそれは腹の真上あたりにあって,夜,部屋の照明をすべて消すと緑色の小さなパイロットランプが点っているのがわかる。何気なく天井を見ているとそのランプは不規則に点いたり消えたりしているようで,そういう仕組みになっているものだとばかりずっと思っていた。
 ある日,感知器のランプは見つめようとすると光が消え,目を逸らして天井の別の場所を見ると点くことに気が付いた。もちろん器具側が人の視線を感じ取って点滅しているわけではなく,見る側の目の構造のほうがそうなっているようだ。目の網膜は,中央を占めて明るいところで鋭い視力を発揮する細胞と,その周辺で暗いところで感度の上がる細胞の2種類で構成されている。だから,電気を消した部屋では,目の真正面で見ようとするとはっきり見えなくて,視線を外したほうが目の隅の細胞が力を発揮して明瞭に見えることになる。明かりを感じると自然にその方向へ視線が向くので光は見えず,視線を他所に向けると光が点いているように見え,それを繰り返したのでランプが点滅しているように見えたのだ。
 ただし,ホテルの場合は窓のカーテンを少し開けて外光を取り入れているからなのだが,パイロットランプの明るさと部屋の適度な暗さと視力のバランスがうまく取れたときに見える現象になる。
 この現象に気付いてから,自宅で寝るときにも辛うじて見える場所から意図的に視線をずらして,薄明かりの中で照明器具の傘や家具のシルエットなどが見えたり消えたりするのを楽しんでいる。。
 この現象を作家の田中哲弥さんに自慢げに話すと,これは星を観測する人には常識なのだそうだが,自分で発見できたのが嬉しい。

2006年5月15日

 左の写真のように,電柱の上に突き出ている2本の棒とそれを繋ぐ梁の役割をしている棒が作る形は右の棒を手前にして後ろの壁と垂直になっているように見える。だが,棒と電柱の接続部分を見ると壁と平行に取り付けられているようなので,右の棒は上のほうが手前に傾いて立っているのではないかなどと考えだすと収まりがつかず,何かとらえようのない空間がそこにあるように思えてくる。
 実際は,梁の役目をしている棒は水平ではなく筋交いのように右上がりの斜めに取り付けられていて,この3本の棒は壁と平行になっている。
 日ごろ工業製品に囲まれて過ごす私たちは,斜めの形に不慣れで,そういった形に出会っても事実と異なる解釈が許される範囲で取りあえず安心感の強い水平や垂直に見立てる傾向があるようだ。だが,その部分に視線を留めてみると,周囲の空間とせめぎ合っている亜空間をそこに見つけることができる。
 この電柱は毎日のように通る道の曲がり角にあるので,いつも事実を知った上で見るのだが,必ず立体的に突き出た形としてとらえてしまう。

2006年5月31日
ふとん

 ふとんに入りもの思いにふけていると,体はくつろいでいるので筋肉に緊張感がなくなっていて,気が付くと手足の位置や曲がり具合さらには何に触れているのかすらわからない状況になっている。当然手足などを少しでも動かした瞬間に位置などすべてが理解されるのだが。あえて,体をいっさい動かさずに手足の状態を推測してみるとおもしろい。予測がものの見事に外れ,体の管理者のつもりになっている意識が唖然とする様子が意識できる。
 ただし,普通は,体の位置などに関心がある場合(有刺鉄線の破れをくぐって近道をするときや女性なら人目の多い場所でベンチに座るときなど)のみそこに意識が向けられるのであって,それ以外の場合は意識されない領域に置かれるために,このようにおもしろい現象として関心を持たれることはほとんどない。意識が管理できていない状況を意識的に探ることによって初めて知れる現象だといえるだろう。
 これは視覚の場合も同様で,現象の「ブラウン管」で紹介した焦点から外れたところにある像が消える現象も,見えていない状況を意識的にとらえる行為が必要となる。奥行きに関してだけではなく,視線が向けられていない部分の像はすべて意識されないが,このことについては近い内に「現象」で紹介する予定をしている。

2006年8月20日
傘の柄

 普段,傘は折りたたみのものを持ち歩きそれで雨をしのいでいるのだが,先日の大雨の時はさすがに普通のこうもり傘を差して出かけた。帰るころには雨は上がっていたが,電車で横並びの長いすの中央当たりに座ったので,適当な傘の置き場所がなく鞄を置いた膝の先で傘の柄のすぐ下あたりを挟んで止めておいた。傘はほぼ垂直に立ち,柄は「?」マーク形の書き始めのほうが真っ直ぐこちらを向いていたので,差すときに持つ柄の部分とちょうど重なり合って見えていた。その状態をしばらく見つめていると,後ろに隠れているはずの柄の幅が倍くらいに太って見えた。さらに見続けていると柄は元の細さに戻ったりふくれ上がったりと振動し始めた。
 柄の手前の部分に焦点を合わせると後ろは左右の視線がずれて二重の像になるのだが,柄の前がずれた像の重なり合っている部分をうまく隠す位置にあるので,柄の後ろは太ったように見える。逆に,柄の後ろ側に焦点を合わせると手前が半透明になって,後ろは普通の太さに見える。目は好奇心が旺盛なので柄の手前と向こうを勝手に行ったり来たりするために振動しているように見えたのだろう。
 久しぶりに持ち出したこうもり傘だったが,思わぬところで亜空間を披露してくれた。おかげで電車を降りるまでの時間を楽しく過ごすことができた。

2006年9月27日
兵馬俑
兵馬俑

 今年も兵馬俑の展覧会が開かれていたり,先日は兵馬俑に扮したドイツ人が捕まったりとこのところ秦の始皇帝陵のニュースをしばしば目にする。
 初めて兵馬俑のことを知ったのは発掘された当時の科学雑誌の記事で,その写真に感激した記憶がある。もちろん,一人の人間のためにこれほど大規模な陵墓が建てられたことに対する驚きもあったが,次のような別な感動が強かった。
 縦隊に整列した兵士像を挟む形で何本もの土手が平行に長く伸びている。土手は像よりいくぶん高く土が盛られているためか,それに挟まれた溝の様子に長い食パンのような空間の塊が見て取れる。溝を埋め尽くした空間の塊に対して兵士像はそれに抵抗するかのように立ち尽くしているが,もはや実体は空間ほうに移っていて,像は空間に空けられた虚ろな存在としてしか見えない。

シーガル

 ジョージ・シーガルの作品にも,周囲の空間のほうに実体を感じ,像は空間に彫られた鋳型の穴のように見える。特に『次の出発』のようにフレームがあると空間の塊がいっそう強調されるように思う。








2006年10月5日
亜夢01

 近ごろは,夕食を取った後,横になってテレビを見ているとアルコールの所為か30分もしない内に眠ってしまう。
 先日も,夕食の後,居間のソファーで寝入ってしまい夜の11時過ぎに目が覚めた。パソコンの電源を切るために起き上がって自分の部屋に向かったが,途中で寝室を覗くともう布団が敷かれていて「今日は早めに敷いたんだな」と思いながらパソコンを終了させて居間に戻ってきた。布団入るにはまだ早すぎるので,またソファーで横になるとあっという間に眠ってしまった。気が付くと12時を大きく超していたので,今度は本当に寝なければいけないと思い,トイレに行こうとして途中で寝室を覗くと布団はまだ敷かれていなかった。
 最初の起きたことが夢で2度目が現実なのだが,どちらのリアリティーも同様に確かで,夢と現実が逆であっても少しもおかしくはない体験だった。
 荘子の「胡蝶の夢」の話を思い出した。

 これからは見た夢のこともこの日記に書くことにした。ただし「亜空間」のサイトなので,ストーリーの奇異さよりも意識との接点や構造が垣間見られる夢を中心に述べようと思う。そこで,普通に言う夢とは幾分異なったものが対象になるので,「夢」に亜空間の「亜」を付けて「亜夢」と呼ぶことにした。

2006年10月14日
蛍光灯
蛍光灯

 写真は家の居間の蛍光灯がベランダの窓に映った様子だ。蛍光灯が5本並んでいるように見える。
 20数年間同じ光景を見てきたはずだが,先日初めて気が付いた。ブラインドの間隔がほどよく開いていて,ソファーに横たわって見ると上手い具合に蛍光灯のカバーが細く等分されて見えたのだ。
 窓を通してベランダの向こうに広がる夜景を見るのは好きで,窓に映る室内の様子と街灯の光が重なって作るおもしろい世界をいつも楽しんでいるのだが,この現象を通して,気付かずに過ごしていることはいくらでもあるのだなと改めて思った。

2006年10月16日
亜夢02

 一回り年配の隣の夫妻とその子供達が私の家に来ているのだが,みんなずいぶん若く見える。私の子供2人がその家族と向かい合うようにして立っているが,2人とも幼い姿をしている。「何年生になった?」と私が次男に聞くと「中学3年」と答えたので,その瞬間にこれは10年前のことを夢に見ているのだとわかり,自分で納得して目が覚めた。
 次男は実際には26才で計算はほぼ正しいのだが,今と異なる時間の夢だという認識が夢の中であったおもしろい夢だった。
 昔住んでいた家が背景だったり,幼なじみが昔の姿のまま現れたりする夢でも,夢の中で違和感を覚えることはほとんど無いが,この夢では状況を冷静に判断していたことになる。
 意識の一部分が覚醒していたのかもしれない。

2006年10月30日
正面視
正面視

 写真は,テレビの前で食事をしていたときの光景で,お椀の前側の少し上のところに四角い形の光が浮かんでいるように見える。
 始めは,食卓の向こうにあるテレビの画像が何かに映りそれが浮き上がって見えているのだと思い,像を消さないように注意しながら周囲にその原因を探った。だが,それらしいものは見あたらず,少し顔を近づけてやっと正体がわかった。お椀に頭を突っ込んだスプーンが柄の端をちょうどこちらに真正面に向けていたのだった。
 普段見慣れたものでも特殊な位置から見せられるとすぐにはそれだと気付きにくいことが多いが,このスプーンの場合は,事実が判明するまでに四角い光をテレビ画面の反射と推測し,それを正当化するために辻褄合わせをしようとして意識がうろたえている状況が非常に楽しかった。

2006年11月13日
亜夢03

 今の住まいはありふれた間取りのマンションで,玄関を入ると正面に5メートルほどまっすぐ廊下が続き,その突き当たりにリビングルームのドアがある。
 休日の午後,廊下の延長線上にあるリビングのソファーで肘掛けに頭を載せ,足を玄関のほうに向けて伸ばし,仰向けに寝ていた。廊下との間のドアは開けっ放しになっていたので,足の向こう8メートルくらい先に玄関のドアが見える。
 次男が帰って来てドアを閉める音で一瞬目が覚めたが,すぐに眠りに陥る。次男がこちらに近付き,私との間合いが4メートルくらいになったとき,また目が覚めると,実際には靴を脱ぎ終えたばかりでまだ6m以上先にいる。次の瞬間また眠ってしまい,3メートルくらいに子供が近付いたと思われたとき,目が覚めると,現実にはまだ5メートルほど離れたところにいる。こうしたことをこの後2,3度繰り返して本格的に目が覚めた。
 子供の姿が4メートル先,6メートル,3メートル,5メートル……と行き来しながら迫ってくると同時に,伸びたり縮んだりを繰り返えす像の様子は,時間が入り組んで流れる不思議な世界に迷い込んだ思いをさせてくれた。

2006年11月21日
亜夢04

 「すみませんが」という声に驚いて目を覚ますと,車掌がこちらの顔を覗き込んでいる。車内は他に人影がなく,照明がほとんど消えて薄暗くなっている。「乗り越したか」と思ったとたんに目が覚めるとふとんの中にいた。
 この間1秒たらずで,『瞬間夢』と名付けたくなる夢だった。
 夢の中でも寝ていたのか,車掌の声で気が付くまでは真っ暗な状況だったような気がする。起こされる夢で本当に目覚めるというおかしな体験をした。

2006年11月29日

 洗面台の鏡に向かって歯を磨いていたとき,手元に置いてあったうがい用のコップの影が手の動きと同期して揺れているのを発見した。手の影がコップの影を引っ張っているように見えた。
 他にもないかと,同じような現象を家中探したところ,ムービーで示したもっと顕著なものが見つかった。台所の流しの上に置いている茶の缶とコーヒーのビンで,その頭のあたりに手をかざすと手の影に操られるかのように壁に映った蓋の影がおもしろいように伸び縮みした。
 洗面所や台所には,鏡以外にも光を反射させるガラスやプラスチックでできたものがたくさんある。だから,影は複雑に構成されていて,手などの影でその一部分を遮るとこういったことが起こりそうなのはわからないでもないが,動くはずがないと思っていたものを動かすことができたという何とも楽しい現象であった。

2006年12月12日
亜夢05

 子供のころに住んでいた家で,私の寝ている枕元の窓のカーテンを母親が開け閉めする音で目が覚めるが,すぐに眠りに落ちその後金縛りになる。手足をばたばたさせて何とか目覚め,横のふとんに寝ている嫁さんに,早速,ずいぶん前に亡くなった母らしき人が夢に現れてカーテンを開け閉めしたことや金縛りにあってどのようにあがいて目が覚めたかというようなことを身振り手振りをまじえて克明に話している夢を見た。
 最初の夢は状況に矛盾が多く,それを説明している後の夢では意識が入り込んでその不自然さに気付いてもよさそうなものだが,普通の夢と同じで何の疑問も湧かずに夢から覚めた。
 ことによると,後の夢が普通の夢で,最初のはもう一段階深い夢だったのかもしれない