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2007年1月8日
蛍光灯2

 駅のホームの屋根の下には1本で2メートルくらいもある蛍光灯が並んでいる。長くて不安定なのか蛍光灯の中央あたりには落下防止用のフックが支えとして取り付けられている。
 視線を上げて,線路に沿ってホームを歩くと一列に並ぶ蛍光灯が次々に目に入るが,どれも支えのフックが中央からかなり外れたバランスの悪いところに付いているように見える。歩く進行方向でいうと手前が長く向こう側がかなり短い位置にフックがある。
 同じ支えるのならちょうど真ん中にしておけばいいのにと思いながら真横から蛍光灯を見上げると,フックは中央に取り付けてあり,我が目を疑うことになった。
 透視図法的な遠近感で景色を見ることに慣らされている現代人にとっては,ビルで構成された町の様子にも大きさの恒常性がはたらき特に違和感を覚えることはない。しかし,この蛍光灯のように風景から切り取られたような状況では,日常の感覚とは違ったものの見え方がすることがあり楽しめる。
 事実を知ってから長手方向に見つめ直した蛍光灯は,フックの位置の認識が変わったせいか,それを取り囲む周りの空間も先ほどとはどこか異なっているように感じ,これもまた楽しかった。

2007年1月15日
夜中のトイレ

 最近の映画館は完全入れ替え制の所が多くなったが,ちょっと前までは上映中にも入ることができた。だが,映画の途中で入ると,館内の暗さに目が慣れるまで空き席が簡単には見つからず足下もおぼつかないので,しばらくは最後方で様子待ちをしたものだ。 この暗さに素早く対応するには,映画館の前で片目をつむり中に入ってから目を開けるのがうまい方法だ。つむっていたほうの目が暗さに順応して,館内を見回せるようになっている。
 不本意ながら夜中に尿意で起こされトイレに入ると,眠気まなこで暗闇から突然煌々と輝く電球の下に立つことになる。眩しい中,用をたして出て来ると,帰りは廊下の暗さに目が付いて行けず手探り状態で布団にたどり着く。
 このようなとき,映画館の方法を試してみるとおもしろい。
 トイレのドアを開ける前に片目をつむり,用をたして照明のスイッチを切ってから目を開ける。すると,周囲はいったい何が起こったのかと思わせるくらいの状況になっている。暗視カメラの映像のようで,電気製品などの小さなパイロットランプが異様なくらい輝いていて,この程度のランプのどこにそんな力があったのかと思うくらい,周りの壁を明るく照らしている。
 それより何より奇妙なのは,片方の目の周囲に競泳用の小さなゴーグルを掛けたときのような圧迫感がある。閉じて開いたほうではなくて何もしなかったほうの目に物理的な圧力を感じるのだ。いったい左右のどちらの目が自然でどちらの目が不自然な状態なのかと考えさせられる。
 こういった機会は結構ありそうなので,試されるとおもしろい体験になると思う。ただ,たいていは寝ぼけていて,試そうとすることすら忘れてしまっていることが多いが。

2007年1月23日
亜夢06

 夢の地図を作ろうと考えている。夢に出てくるこれまでに住んだ家については,その周辺の家との位置やベランダから見える景色や家の間取りなどが毎回同じようでいて必ず微妙にどこかが違っている。これらを何とか統合して地図にできないかと思っている。
 先日,友人にその話をすると,実は自分も以前から同じことを考えていて作ったものを持っていると言って,大きな紙を目の前に広げた。そこには町内会の地図のようなものが克明に描かれていて,友人が得意気に位置関係などを話すので,相づちを打ってはいたものの,先を越された思いがして,何とも無念な感じがした。
 これは友人が出てきたところからが夢で,普段考えていることが夢に出てきただけだと言われればそれまでだが,やはり,夢の中で夢についての会話が交わされたところがおもしろい。

2007年2月13日
秒針

 『ビル・ヴィオラ展』の印象が尾を引いているのか,日常でストップモーションのように止まったり動いたりして見える現象として次のものに気が付いた。
 壁に掛かっている時計をふと見た瞬間,秒針が止まっていて時計が故障しているのではないかと思うときがある。見続けると秒針は動きだし,ずいぶん長く止まっているものだと感じると同時に,いつもとは違った動きをしていることに不可解な思いがする。
 秒針の動きは流れるようにではなく,カチ・カチと鳴る音ともにステップを刻んでいることを知ってはいても,毎回きっちり静止しては動いているというイメージはあまりない。意識は作り上げたイメージをなるべく崩さないように働くために,こういったことは普段は気にならないのだろう。
 このことが引き金になって,映画『去年マリエンバートで』で,二人の主人公達がダンスホールで踊っていて,彼らの会話が始まるとそれまで周りで踊っていた人たちの動きが止まり,会話が終わると踊り出すという,時の流れの不思議さを感じさせるシーンを思い出した。

2007年2月15日
電光案内板

 さらに,次のようなストップモーションの現象もある。
 駅のホームには,次の電車が隣の駅に着いたことなどを示す電光案内板のようなものが天井からぶら下がっていて,矢印などが点滅してそこが電車の現在地であることがわかるようになっている。電車を待っていて,振り返るようにしてその案内板を見上げたとき,矢印も何も点滅していなくて,まだ電車は近くまで来ていないから表示されていないのかと思っていると,次の瞬間に真ん中の矢印などが点滅して,先ほどの表示はどうなっていたのだろうと不思議に感じるときがある。
 点滅のある一瞬を切り取ると,点いているか消えているかのどちらかでしかないのは明らかなことだが,点滅に一定の静止した状態が続くというイメージがないためなのか,こういった状況のときは点滅していない時間が異常に長く感じられる。
 今の子供はするのかどうか知らないが,関西では「ぼんさんがへをこいた」(関東では,「だるまさんがころんだ」というらしい)という遊びがあった。鬼役になったときは塀などに向かって目を閉じるが,言葉を唱えて振り返るたびに目をつぶる前とわずかに違った静止した光景がそこに展開されていて,不思議な感覚にとらわれたのを思い出した。

2007年2月25日
車窓

 冬の寒い日,電車の窓が,暖房の効いた車内と外気との温度差で白く曇っていることがある。しかも,一枚の窓ガラスの中でも露で曇っている部分とフレームの近くの曇らずに外の景色が普通に見える部分に分かれている場合があるが,これが今回の舞台装置になる。そういった窓では,透明な部分からだけでなく露で白く隠されているところからも淡くだが外の景色が見えていて,後方へ流されて行く様子がわかる。
 このようなとき,意識的に,曇った部分と透明な部分の境界あたりから景色を見るとおもしろい。
 曇った部分から見ても,景色に焦点を合わせている限り極端に不鮮明に見えるわけではないが,曇ったガラスの表面に焦点を合わせると,景色はずいぶん不鮮明な状態になる。つまり,この状況では,透明な部分からの通常に見える景色と,3割ほど不鮮明になった景色と,7割ほど不鮮明の景色が三つどもえで絡み合う。
 電車の動きに伴って移動する景色を素直に追いかける視線は,不鮮明な部分では削られた情報を補おうとして透明な部分に戻ってしまう。また,不鮮明な部分から景色を見続けようとしても,目のすぐ前にあるガラスの曇った部分に焦点が移動してしまう。このような状態が交錯して,視線は永遠にさまよい続けることになる。
 電車が徐行すると,景色の移動に視線が容易に付いて行けるからか,この現象はいっそう顕著になる。

2007年3月9日
亜夢07

 夜中に焦げくさい臭いがして目が覚めた。電気のコンセントにたまったほこりか何かが焦げているような気がして,何箇所かのコンセントやガスの元栓などを確認して回ったが異常が無く特に臭いもしない。寝床に戻ってうとうとし始めると,また焦げくさい臭いがする。今度はコンセントだけでなく,ベランダから外の様子をうかがったりしたが原因がつかめない。
 納得がいかないまま布団に入ろうとして,枕元を見て理由がわかった。前日,友人から屋久島旅行のお土産に杉でできたうちわをもらったのだが,それを使いながら寝たのだった。その杉の香りを焦げた臭いと勘違いしたわけだ。改めてそのうちわを嗅いでみても,杉のいい香りはするもののそこから焦げくさい臭いを連想することはとてもできない。
 起き上がってからの一連の行動は思い込みによるものに違いないが,そのきっかけとなった臭いが目を覚まさせるほどの強烈な現実感を持っていたことは確かだ。ただ,残念ながら,その直前に夢を見ていた記憶はない。
 これはずいぶん以前の出来事で夢そのものではないが,視覚以外の感覚がとらえた世界と意識とのずれのおもしろい現象なので亜夢として書き残すことにした。

2007年3月28日
マトリックス

 『マトリックス』という映画はその後の様々な映像やメディアに計り知れない影響を与えたように思う。私に二度も映画館に足を運ばせたという意味でも珍しい。この作品はテレビの予告段階で絶対に見逃せないと思わせるところがあった。それは次々と襲ってくる銃弾を主人公がのけぞるようにしてかわすシーンで,強烈な印象が残った。
 周囲にセットされた何十台ものカメラのシャッターをコンピューター制御で順に切る方式で,背景が高速に回転し移動する中,焦点を合わされた主人公だけがスローモーションで撮られている。このシーンの映像としての魅力は,手法が単に斬新というだけではなく,そのことによって主人公の姿を立体的に浮かび上がらせたところにあると思う。
 これと同じような状況の立体的な場面に普段の生活で出会った。
 道路にお尻を突き出すようにして止めてあった自転車には,荷物をたくさん載せられるように背の高い鉄製パイプの支えが荷台に取り付けられていた。そのすぐ横を歩いて通ろうとしたとき,この風変わりなパイプの支えに気が付いた。目をそれから離さず,首を回して振り返るようにして通り過ぎるときに見えたものは,いつもとはまったく違うものすごく立体感のある自転車の姿だった。
 もちろん自転車だけでなく,電柱でも看板でも植え込みでも,この程度の大きさの物なら,そのすぐ側を通るとき,それを見つめ,歩みを止めずに振り返るようになるまで見続けると,意外なほど立体的な様相をしているのに驚かされる。
 日常で見かけるものが立体的なのは言うまでもないことだが,それを意識することはほとんど無いのが現状だと思う。このような見方に出会えたことで,改めて物の見方の可能性を感じた。
 ビデオではどうしても被写体のほうが回転しているように見え,残念ながら立体感はあまり出ていない。

2007年4月7日
風呂1

 風呂は亜空間の宝庫だ。いっぱいに張った湯に首まで浸かって目の前を見ると,そこにはおもしろい現象がいくつも待っている。
 モネは今という瞬間を描くことにこだわった画家だといわれているが,飽くことなく描いた睡蓮のシリーズを見ていると,池の水面や水中での映り込みによる豊かな光の表情に魅力を感じたからあれだけ多くの作品を残したのではないかと思える。そんなモネの日本庭園と比べるとはるかに貧弱だが,家庭の風呂でも十分に光の変容を味わうことができる。
 湯船で,目の前に浮いている小さな埃の位置が定まらなくて戸惑うことがある。見えている埃の状態として,湯の表面に浮いている,湯の中を漂っている,足に付いている,あるいは壁に付いたものが映っているなどが考えられる。ところが,埃の状態がどれかはっきりしないときでも,何故かその位置は取りあえず決まってしまう。おもしろいのはこの思いこみが外れていた場合で,顔が少し動いても,埃はそれにともなって大きく揺らいで不思議な空間を演じてくれる。
 顔の真下の湯に映っている前髪を切れ毛と思いこんだときはちょっとした混乱すら生じる。埃と違って,前髪は顔と連動してそのものも揺れるので,像は極端な動きを見せる。しかも,この場合は像は目の近くにあり,位置はいっそう定まりにくく,その分余計に動きは奇妙なものになる。
 単眼視の場合と同様に,このように像の位置が定まらないときでも,私たちは取りあえず何らかに関連付けて位置を決め,どうも見えている世界を間違いなく理解している体を装うようだ。

2007年4月16日
キーボード

 昨年の暮れにVAIO type Gを購入した。それ以来勤め先に向かう電車の中で,このパソコンを使って30分ほどHPの原稿を書くのがこのところの日課になっている。文字入力が目的なので,手はほとんどキーボードの上に置かれた状態になるが,たまには窓枠に片肘をついて物思いに耽ることもある。
 そうして窓から外の景色をぼんやり眺めていて,視線をふと手元に戻すとキーボード上に小さな点が二つ浮かんで輝いていた。
 しばらくは正体がわからないまま見つめていたが,位置からして「F」と「J」のキートップ上のホームポジションを感知するために付けられた突起が輝いるのだと間もなく気が付いた。突起は数ミリ程度の大きさなのでそこで反射した光は片方の目に飛び込んでも,もう一方の目には届かず,単眼視の状態になった結果浮かんで見えたのだろうと思う。
 当然,浮かんでいるのを発見してその正体がわかるまでにも不思議な空間を楽しむことができるが,この場合のように原因がわかった上でさらに見ることもまた楽しい。

2007年4月23日
風呂2

 我が家の風呂は古いマンションにはよくあるタイプで,蛇口は長くて回すと湯船にも洗い場のほうにも湯が出せるようになっている。蛇口を湯船に向け,それと反対側を頭にして湯に浸かると,湯の中に蛇口が映っているのが見える。
 蛇口の像と目の間に手を差し出すと,当然のことだが像は手に隠されて見えなくなる。ところが,その手をゆっくり下げて湯の中に入れて行くと,手を透かして隠れていた蛇口が徐々に見えてくる。手がまるで透明な薄い紙にでもなったようで何ともおもしろい。
 この現象はごく最近になって気が付いた。これまで何千回もこの湯船を同じように使ってきたのだが。
 映っている蛇口は水面で反射した像なので,水面下にある物で隠されるわけがない。鏡の後ろに手を持って行って映っている像を隠そうとするようなものなので,すぐにでも気が付きそうだが,この場合は不思議さが先に立って見とれてしまう。
 この現象では像は蛇口の真下に映るので,そこに焦点を合わせないと像は見えない。ところが,前に遮蔽物の手があるので,ついそのほうに焦点が合ってしまう。物を通してその奥にある像に焦点を合わせるという行為は簡単にはできないようになっているみたいだ。
 この風呂では,蛇口のすぐ近くに湯船の底にある排水口の栓を繋いでいるチェーンが蛇口の像を切るように垂れている。蛇口の像とチェーンの両方に注目しながら手を動かすと,また違った空間が楽しめる。
 手を上から水面に近づけると,まず湯に映った手の像が現れ,蛇口の像を隠し始める。チェーンは実際の物なので,この段階では手の像に隠れず見えている。ところが,湯の中に手を入れて行くと,蛇口の像が手を透かしたように見えると同時に,チェーンは手に隠されてその部分が見えなくなる。つまり,湯に手を入れる前と入れてからでは,蛇口とチェーンで見える見えないが逆転するという何とも不思議な現象になる。
 手の上げ下げの加減や水面の波立ち具合で蛇口と手の関係は様々な様相を作り出して飽きさせない。ともかくおもしろい現象なので,のぼせないように注意して是非見ていただきたい。

2007年4月29日
亜夢08

 大型連休に入って2日目の午後,ソファーで横向きに寝そべってテレビを見ていたら,いつの間にか眠ってしまった。しばらくして気が付くと,テレビではまだその番組が映っている。右手を動かすとお菓子の入ったビニールの袋に触れたので,それをつかんで軽く放り上げると,目の前を弧を描いて通過し,左手で受け止めた。今度は,左手で投げ返すと逆方向に飛んで行き右手に落ちたのだが,何かがおかしい。
 テレビが映っているのがわかりその音声もはっきり聞こえているのだが,投げ合っている手の姿が視野に現れない。何度か同じことを試してみるが,投げている感じはするものの,顔の近くに来ているはずの手がまったく見えない。その内,動かそうとしても手が言うことを聞かなくなっているのに気が付いた。金縛りだ。
 この後,苦闘の末,目を覚ました。
 この金縛りでは,顔を向けている方向にテレビがあり,番組も眠る直前と連続した内容で,音声も明瞭に聞こえている。ソファーに横たわる身体の姿勢もはっきり見えていて,薄目ではあっても目を開けて見ていたとしか考えられない状況だった。だが,これら全体が夢の世界だったということを否定することももちろんできない。
 長い休みに入り気が弛んでいるせいか,こんなにおもしろい夢が見られた。残りの1週間が楽しみだ。

2007年5月16日
亜夢09

 春先から初夏にかけてのこの時分,朝のまどろみは気持ちがいい。平日は出社しなければならないので休日のようにはいかないが,いったん予定時刻より早めに目覚めることで同じ気分を味わうことができる。
 年のせいか,近頃はそれが自然にできて,7時の起床予定が6時に目覚めてしまう。枕元に置いている腕時計で確認してすぐまた眠りに入る。次に目が覚めるのは30分後で,その次が15分後とだいたい半々になって行く。残りが5分を切ったあたりからが本番で,1分刻みくらいで夢と目覚めが繰り返され,その間に膨大な時間の経過を感じて本格的に目が覚める。
 先日は,その日にタイへ旅行することになっていたので少し興奮気味だったのか,目覚め方が異なっていた。
 いつものように予定の1時間前に目覚め,その後も毎回時計で時刻を確かめながら惰眠を楽しんでいたのだが,残りが5分,3分,2分と迫り,ついに1分となっていよいよ次は起きなければならないかと思って眠ったが,目が覚めるとまだ5分前だった。
 どこからが夢だったのかはまったくわからない。

2007年5月20日
亜夢10

 今朝,目を覚ますと,ふとんのすぐ横にある箪笥の引き出しが一つ少し飛び出していた。
 閉めようとして押すのだが引き出しはまったく動かない。何度か試している内,押している手が見えないことに気付き,これは金縛りだとわかった。うめき声を出すと,横のふとんに寝ていた嫁さんが肩を揺すって起こしてくれた。
 その段階ではっきり目覚めなかったので,すぐにまた眠ってしまい,きっちり金縛りになってしまった。今度は飛び出た引き出しに手を掛け,揺らしてがたがた音を立てて起こしてもらおうとしたが,いつまでたっても気が付かない様子だ。何度もあらん限りの声を上げて,やっと隣から名前を呼ばれて目が覚めたが,そのときに嫁さんが言ったことがおもしろかった。「夢の中で,一生懸命起こしてたのに」
 起きると,引き出しは少し飛び出していた。

2007年5月31日
テレビ

 緑色がずいぶん退色してきたのと突然紫色の帯が現れたりするので,そろそろ買い換えなければと思いながら,地上デジタル放送が実施されるまでは持たそうとしているテレビを毎日家で見ている。それはブラウン管式でしかも平面ではなく球面型の画面なので,そこには窓や自分の顔など周りのいろいろなものが盛んに映る。
 いつもテレビを見るソファーの上には電球がぶら下がっていて,特にその明かりの映り込みが気になる。ソファーに座って見ると,電球は画面の右上に映る。この映り込んだ光は,番組が映画などで全体に暗い場面のときは,そこだけが眩しいくらいに光って目立って仕方がない。ところが,カメラがパンしたり場面が切り替わったりして画像全体に大きな変化が現れると視線は無意識にそのほうに移動し,先ほどまで目障りだった光は視界から消えてしまう。そのまま番組に見とれていて,しばらくして動きの少ない場面になると,また右上の光が目に付き,気になり出す。このようなことが何度となく繰り返される。
 画面に動きがあるとそのほうに素早く視線が移動することは確かだが,それだけのことなら電球の像が消えることはなく,常に両方が見えている状況になるはずだ。ところが,実際には,画面に集中しているときは映り込んだ光は消えていて,視線を右上に持って行き電球の映り込みを確認しようとすると,スイッチが入ったかのようにそこに光が現れる。動きの少ない場面のときは,映り込みの光から意図的に視線を逸らせて画面の中央あたりに移動させても,映り込んだ光は相変わらずそこで輝いている。これに対して,画面の動きに刺激されて反射的に視線が動いたときは映り込みの光は物の見事に消え去っていて,先ほどまで見えていた映り込みの場所を目の隅で意識しても電球の光は見えない。
 視野に変化が起こると脳は新しい情報をまとめて納得できる世界を素早く作り上げる。そのとき,映り込みの光は変化しないものとして,新しい世界では無視される対象になるのだろうか。あれほど刺激的で気になって仕方がなかった光も,脳が新たに生じた世界を構築する過程で視野から排除されてしまうようだ。
 私たちが見ることを通してしていることの一つに,世界を常に理解可能なものに仕立て上げるという作業があり,これが優先される過程をこの現象から見て取ることができる。意識するということの意味合いが象徴的に現れている現象ではないかと思う。

2007年6月7日
亜夢11

 ズボンのポケットに入っていた携帯電話をおもむろに取り出して,アドレス帳を表示させようといろいろボタンを押すのだが,うまく操作ができない。気が付くと,それはサイズが普通の半分くらいしかなく,どう見ても自分のものではない。
 そう言えば,この小さな携帯電話は先ほどの夢で友人から預かってポケットに入れたものだ,と経緯を思い出して納得している夢を見て,何か変なので目が覚めた。
 起きてから考えると,この夢の前に友人から携帯電話を預かった夢を見たような気もするが,はっきりとは覚えていない。

2007年6月12日
三叉路

 最寄りの駅を出てから勤め先までの道の途中に三叉路がある。そこでどちらの道を行っても距離はあまり変わらないので,いつもはそのときの雰囲気で選んでいる。先日,選んだほうの道で角家の解体工事があり,壊した屋根や壁をショベルカーがダンプカーに載せていて,埃が立つはうるさいは臭いは大回りさせられるはで不愉快な思いをした。
 次の日,同じ三叉路で何気なく昨日通った方向に行きかけた足が,ダンプカーが見えた瞬間,ステップを踏んでもう一つのほうの道に向きを変えた。それはほんの一瞬の出来事で,昨日の状況を鮮明に思い出した結果取った行為ではない。では,いわゆる条件反射かというと,予想される状況との関係が複雑で,突然顔をめがけて飛んできた虫をとっさにかわすような行為とは異なっていて,それとも違う気がする。
 道を変えた理由は昨日の嫌な体験にあるのだろうが,それが意識に上る間もなく身体のほうが反応してしまったのであって,工事の様子をしっかり思い出し,それに対して行動したのでは決してない。ところが,向きを変えて歩き出して3歩と行かないうちに解体工事の状況が思い出され,あちらの道を選ばなかったことに納得している自分がいるのだ。
 こういった行為はおそらく日常の様々な場面で起こっていると思われる。意識する以前に起こした行動とそのことを意識するまでの時間差が短いこともあって,普段は,意識した結果として意味のある行動をしたと思ってしまっているのではないだろうか。
 この三叉路の場合のように,意識する前に決断が下されている事実を感知できる機会はあまりないと思われる。意識の意味を考えるのにふさわしいおもしろい体験であった。

2007年6月21日
左右の手

 ネクタイは,年に一,二度くらいしか着ける機会がないので,その都度まどろこしい思いをしながら結んでいる。手順を思い出しながらそこそこに整えても,長さが合わなかったり結び目がいびつだったりして気に入らなく,何度かやり直すことになる。これに比べて,毎朝ネクタイを着けて出かける人は,おそらく締める過程をほとんど意識せずにきっちり結べているのではないだろうか。
 女性が髪留めを頭の後ろに留めているところを見ていると,器用なものだと感心させられる。髪留めを持たないほうの手が髪の形を保持しながら,指先でピンを刺す場所を探って巧みにピンを誘導している。おそらくこの手探りの作業の過程もほとんど意識されていないのではないかと思う。
 冷静に考えると,これらの行為は結構複雑な作業のように思える。左右の手が実に見事に補い合いながら微妙な調整を繰り返して仕上げている。だが,この細やかな作業の一つひとつが意識の管理下で行われているとはとても思えない。私の何がそれを遂行させているのだろう,不思議だ。
 こういった日常の行為に着目することが,意識されずに事が的確になされる現場に立ち会うことになるのではないだろうか。

2007年6月28日
亜夢12

 夜,自分の部屋でパソコンのゲームをしているが,何とも眠くて仕方がなくまぶたが自然とふさがってくる。ほとんど目を閉じ半分眠りながらゲームを続けている状態だ。辛うじて薄目を開けると,辺りは漆黒の闇に覆われていて何も見えない。そんな中で突然ポロックのポスターが目に入った。
 ところがそれはリビングルームの壁に貼ってあるものなので,これは変だと思った。その瞬間,いつの間にかリビングルームのソファで横になっていることに気付いた。自分の部屋で居眠りしながらゲームをしていたのは夢だったのだ。
 その夢は体感を伴いものすごくリアリティがあったので,これは亜夢として記録しておこうと思い,メモを取るために起き上がろうとした。ところが,体がまったく動かない。まだ夢の中にいて,きっちり金縛りになってしまったのだった。
 後から考えると最初の夢は特におもしろいところがあったとは思えないが,夢の中では何か特別な意味合いを感じたのだろう。
 亜夢を書くことにストレスを感じているわけではないが,近頃この手の夢を見ている夢を見ることが多くなった。

2007年7月5日
鏡1

 洗面台の前に置いてある化粧瓶とそれが鏡に映っている様子を見比べるとおもしろい。
 当たり前だが,瓶に書かれた文字は左右が反転して逆文字になっているし,文字の位置で判断すると瓶は前後が入れ替わったように映っている。ところが,瓶の蓋などで光を強く反射して輝いている部分を見ると,何とも不思議な感じがする。実物では手前側が光っているのに対して,鏡の中でも蓋のこちら側が光っていて,この部分だけが鏡の反射の法則に背いているからだ。
 鏡に映った像に直接当たった光が反射して輝いているのだろうか。それなら,暗がりで懐中電灯の光を鏡の中の自分に当てると明るい自分の像が見えるはずだが,もちろんそうはならない。何か勘違いしているようだ。
 実際には,この蓋のような曲面ではどの位置から見ても光の点が輝いているように,蓋のどの部分でも光を反射している。光るシールが貼られていてその場所だけが光っているわけではない。この瓶の場合は蓋の向こう側で反射した光が鏡に映った状態を見ているだけに過ぎない。直接に光る蓋のその部分だけが光を反射していると思い込み,蓋の他のところでの反射を考えなかったことがこのような謎を生じさせたのだろうと思う。
 いつもは,鏡に映った状態が実物の反転したものであるかどうかなどは確かめるまでもないこととして過ごしているが,鏡にはこの例のようなおもしろい現象がまだまだ隠されているような気がする。何が出て来るか楽しみだ。
 

2007年7月12日
新幹線

 速くなったとは言え,新幹線で大阪東京間を移動するのは楽しいものではない。狭い座席で隣の人と肘がぶつかり合わないように注意しながら本を読んだり,音量を気遣いながら音楽を聴いたりするのだが,疲れるし飽きてくる。前方に目を向けると,通路のドアの上に電光ニュースが流れているのが見える。たいした内容ではないことを知りながらも,一文字ずつ次々と現れるこの方式は不思議とその後に続く文字を期待させ,半強制的に結局読まされてしまう。
 退屈しのぎに読んでいた電光掲示板から,ふと目を窓の外の景色に移すと,進行方向とは直角に,黒っぽい線が2本空に引かれているのに気が付く。それは太めの平行な線で窓から景色の奥の方に向かって伸びている。車両の揺れや視線の移動に伴って奇妙な動きを見せるので,これが景色の一部ではないことはすぐにわかるが,窓ガラスに映った何かの像のようでもなく,原因が簡単に見つからない。
 犯人は天井の蛍光灯で,2列に長く並んだ状態が目に焼き付き,空を背景にしたときその像が残像として見えた現象だったのだ。
 視覚の残像現象は常に起こっているものだが,それが際だった形で見えにくいのは,コントラストの強い状況を数十秒間くらい視線を固定して見る機会が少ないことと,その後すぐに壁や空などのような単調な模様の背景に視線を移してそこをまたしばらく見つめるといったことがあまりないからだと思う。新幹線の場合はうまい具合に条件がそろっている。まず電光ニュースはほとんど視線を動かさずに結構長い時間見つめることになり,その間,席から電光掲示板までにある天井の蛍光灯は目に焼き付くことになる。そして,窓の外には空が広がっていて退屈しのぎにぼんやり景色を眺めることになる。
 この現象は空が暗くなり始めたころがほどよく見える。昼間は蛍光灯の光の印象が弱く,夜は窓ガラスに室内の様子がくっきり映り窓の外に残像を見つけにくいからだ。
 残像現象もおもしろいものがいろいろありそうだ。

2007年7月22日
MRI

 一昨日の夕方,コンピューターのディスプレーを見ていたら,その横に隣接させているテレビのモニターの映り具合が何かおかしいのに気付いた。画面の一部分が500円玉くらい大きさのグレーで隠れている。直接そこを見ないようにして視線を動かすと,グレーの円も移動する。始めは目に埃でも付いているのかと思い,強く瞬きをしたり,目頭をぬぐったりしたが解消されない。片目ずつ瞑って試してみると,どちらの目でも同じような症状なので,これは目の問題ではないのではないかと思い始めた。
 洗面所へ行って鏡を覗き込むと,欠損部分が広がっていて,視線の移動と連動してあちこちにグレーが見える。次にトイレで便座に座り無地のドアを見つめると,グレーの小円はつながり視野の3分の1を占めるほどの楕円になっていて,その周囲はプリズムのような輝きを見せている。いつもなら見とれてしまう現象なのだが,そんな場合ではないと慌てだした。
 脳血栓の前兆ではないかと不安になり,知り合いの看護婦をしている人や消防署に電話をして,緊急の眼科医を紹介してもらった。ところが時刻が遅いのかどこも連絡が取れず困っていたのだが,気が付くと先ほどまでの現象がきれいに消えていた。
 気持ちが悪いのと,前から一度自分の脳の様子を見たいという思いもあって,昨日の朝,MRIの検査を受けてきた。患者が横たわるベッドの上にはちょっと近未来的な様相のカプセルが備えられていて,そこに頭を固定される。耳栓を強いられてはいるが,脳の断層撮影に伴って響くズドンズドンという重低音のビートはエレクトロニカを思い起こさせ,10分程度の検査が不思議と快適だった。
 診察で,自分の脳の断層写真や編み目のように走る血管の3D像を見せられた。素人目にはこれが普通なのか異常があるのかまったくわからなかったが,医者が特におかしいところはないと言うのを信じることにした。
 エッシャーが晩年,風景の真ん中に現れた球形の別世界へ入ろうと農夫が足を踏み入れている様子のスケッチ(上の絵)を残しているが,一昨日はちょうどそのような透明な楕円球がしばらく見えていた。これが正常な状態で見られるのならすばらしいことなのだが。

2007年7月26日
亜夢13

 夜,寝ようとするがなかなか眠ることができない。それならと,歯磨きは子供の頃から朝で,寝る前に磨く習慣はないのだが,夜磨くのがいいことはわかっているので,起き上がって洗面所で歯をていねいに磨き始めた。
 周りは仄暗く,鏡を覗くとそこには漆黒の闇が張り付いていて,自分の姿はどこにも見あたらない。鏡のフレームははっきり見えているのだが,その内側にまったく何も映っていないのだ。蛍光灯を点そうとして何度もスイッチを押すのだが,いっこうに洗面台は明るくならず,暗いまま何とか歯を磨き終えた。そして薄暗がりの廊下を通ってふとんに戻り横になったとき目が覚めた。
 このところ関心を持っている「鏡」と「闇」がうまい具合に現れた夢だったので,見たいと思っている夢が見られるようになったのかと一瞬思ったが,そんな訳はない。
 ともかく,鏡の神秘さと意識の問題が融合されたおもしろい夢だった。

2007年8月4日
氷塊

 タイトルから地球温暖化問題を象徴する南北両極の氷の溶解を思い浮かべる人がいるかもしれないが,ここでは,ずっとスケールが小さく,家庭にある冷蔵庫の製氷室でできる普通の氷を扱う。
 いつ始めたのかは忘れてしまったが,真夏になると,昼の一番暑いときを選んで畳に寝転がってよくこれをする。まず,冷蔵庫から取り出したばかりの氷一個を上下の前歯で挟んで仰向けに寝る。次に,氷には挟んでいる歯以外のどこも触れないよう細心の注意を払う。唇はもちろんのこと舌もいっさい触れてはいけない。準備はこれで終わり。
 この状態では氷の冷たさは直接伝わってこないが,一分も経つと,氷から降りてきた冷気が口に充満する。そして,吐く息の熱で氷から溶けた水滴がぽたりと咽に落ちる。清涼感満点だ。
 今にも落ちそうに垂れ下がっている水滴の様子は明瞭に思い描くことができるので,つい舌の先で触れたくなってしまう。そこを我慢してこの状態を意識すると,舌と水滴までの距離や口いっぱいに広がる冷気とで,改めて口内に空間を感じとることができる。

2007年8月13日
眠る方法

 熱帯夜が続くこの時節はだれもが寝苦しくて睡眠不足になるが,普段から不眠症に悩んでいる人も多いようで,薬に頼るほどではなくても,床に就く前に,アルコールを飲んだり,軽い体操や瞑想をしたりしてから布団に入るということを聞く。
 私は,小心者のくせに眠りに関しては大胆なのか,その内寝られればいいと割り切ることができ,眠られないことを悩むことはない。また,神経質な割に眠りに関しては無頓着なのか,たいていは布団に入ってしばらくすると睡魔が襲ってきて簡単に眠ってしまう。
 それでも,年に一二度くらいは寝付きの悪い日がある。昔から,無理にでも眠るための迷信めいた方法は,羊の数を数える方法を始め,各国,各地,あるいは個人でいろいろなものがあるようだが,私の場合は,いつどこで覚えたのか自分で考え出したのかも思い出せないけれど2種類の方法を使っている。
 一つは,片目で寝る方法で,片方の目だけをつむりもう一方の目は開けた状態にしておく。開けている目は極力閉じないように努力する。ところが,閉じないようにすればするほど不思議とその目は塞がってくる。そして,塞がろうとする片目を何度か開けている内にまぶたが完全に閉じて眠りに入ることになる。この方法でたいていの場合は眠ることができるが,それでもだめなときは次の方法がある。
 両目を閉じたまま,上を見るように眼球を上方向に向かせる。その状態で,上まぶたの裏側をこするような感じで眼球を左右に大きくゆっくり移動させる。この左右の動きを何度か繰り返すだけで強烈な睡魔に襲われて確実に眠ることができる。ただしこの方法は悪夢につながる場合が多いので,あまりお勧めはできないが。

2007年8月25日
亜夢14

 勤め先の会議室で打ち合わせをしている。6,7人の通常の会議で,特に変わった様子はない。
 ところがこれは夢で,自分は今,家のソファーで横になっているということがわかっている。そして,側に座っている自分の子供に,これから今見ている夢の内容を話すのでしっかり聴いてくれと頼んでいる。
 会議は休憩に入り,届いた出前のコーヒーを端から順に頭越しに手渡しで送っている。コーヒーがこぼれそうになっていて,危ないから机の上を滑らして回したらいいのにと思ったりしている。
 この夢は記憶しておこうと思い,内容を始めからていねいにたどってすべてを思い出したところで目が覚めた。
 ソファーで寝ていたのは事実だったが,夢の内容を話したことや,しっかり反芻していたことにリアリティーがあったためか,目覚めてしばらくは現実との境がぼやけていて,側にだれもいないのが納得しにくかった。

2007年9月4日
水滴

 先日,明け方に降った集中豪雨の猛烈な音で目が覚めた。線路が冠水でもして通勤の路線が不通になっていることを期待しながらテレビのスイッチを入れたが,ニュースはそのことに一言も触れていなくて,いつものように出勤することになった。
 雨はすでに上がっていて曇り空だったが,電車の窓ガラスは強い雨に洗われたせいか磨かれたように澄んでいて,車内から景色が普段よりずっと映えて見えた。
 しばらく窓の外を見ていて,気が付くと,窓ガラスには雨の名残の水滴が10個ほど付いていた。雨が上がったばかりの窓は,水滴がまだつたい落ちていたり,埃の上を流れた跡が付いていたりしていて,窓も水滴も美しいとはいえないことが多いが,その日のは違った。雨が上がった後急速に乾燥が進んだのか,洗われて曇りのないガラスに丸い透明な水滴だけがレンズのように張り付いていて,それが宙に浮かんでいるように見える。
 その水滴に焦点を合わせると,窓を通して見える景色のすべてがそこに極端に凝縮され変形された像として映っている。そして,その小さな景色は,窓から見える景色の中で確固たる位置を占めながら電車の進行に伴って次々と模様を変化させていく。
 少し前の「日記」で,エッシャーの晩年の作の農夫が球形の別世界に入り込もうとする絵について触れたが,ちょうどそれを思わせるような光景が目の前で展開したのだった。

2007年9月9日
言葉1

 通勤の途中にある事務所の前にポスターが貼られていた。ポスターに大きく書かれた「おかえり」の文字は,最初は写真の女性が帰ってきたのを家の者が迎えている言葉と思ったが,この女性が誰かの帰宅に対して挨拶している言葉と取ることもできる思い,どちらだろうと考え始めた。
 すると,「おかえり」は歓迎する場合の言葉だけではなく,映画で,飲み屋の女将が浮浪者を追い払うときの言葉や,奉公に出された子供が母恋しさに尋ねてきたとき涙ながらに追い返す母親の言葉も同じだと気が付いた。言葉を補うと「とっととおかえり」や「さあ,おかえりなさい」とでもなるのだろうが,「おかえり」だけでも十分に意味は通じる。実際には文脈の中で用いられるので,意図を正反対に取り違えることはほとんど無いとは思うが,このように同じ言葉がまったく逆の意味で使われる場合があることに興味を持った。
 遊びほうけて泥で汚れた顔で帰ってきた子供に「きれいな顔やな」と言うことがあるように,使おうと思えばどの言葉も強引に逆の意味にすることができるが,「おかえり」のような比較的無理のない例は他にあるだろうか。
 ネッカーの立方体を例に挙げるまでもないが,普段出会うすべてのものが多義的な様相をしていて,私たちは左右視野闘争のようなことを常にしているようだ。世界が構築される中でほとんどのことは必然的に何かに定まるのだろうが,一義的に決まるまでの間隙に亜空間は現れる。
 このように考えると,言葉においても文脈が成立し了解される過程に亜空間が潜んでいることは十分に考えられる。これからは,言葉の間隙についても取り上げていくことにしよう。

2007年9月17日
キーボード2

 昨日,注文していたAppleが先月発売したキーボード(Apple Wireless Keyboard)がやっと届いた。昔からパソコンのキーボードには結構こだわりがあり,数年前からはHHKB-Proを使用している。このキーボードは静電容量無接点方式を採用していて,いわゆるチャタリングなどがまったくと言っていいほど無く,快適に入力操作をすることができる。
 ところで,最近の電化製品や身の回りの機械のスイッチやボタンが押してもほとんどへこまないフラットなものに置き換わってきている中,パソコンのキーボードだけは何故かキーを深く打ち込む方式のものが主流を占めている。しっかり打てるので入力の実感が得られると言う人もいるが,昔のタイプライターのイメージが強く残っているからではないだろうか。
 HHKBを愛用していると言っておきながらこれはおかしいのだが,実は,ノートパソコンのキーボードのようにほとんど沈み込まないキーストロークが好みで,指で表面を撫でるよう入力する仕方が私の理想なのだ。ただし,ノートパソコンのキーはちゃちで,キーボード全体がぺこぺこへこんだりして,とてもキーストロークの観点から評価できる代物ではない。その点Appleのこのキーボードは期待に応えてくれそうだ。
 文豪が理想の万年筆に出会うまでに随分長い年月が掛かるという話を聞く。こういった人たちと比較するのはおこがましい限りだが,ワープロで文章を作成する者にとってこういったインターフェースは非常に重要な意味を持つと思う。
 絵を描く人は意識しないところで筆が進んでいく場面と向き合いながら作品を完成させるのではないかと勝手な想像をしている。だが,このことは文章を生み出すその瞬間にも言えるのではないかと思う。肝心なことは意識とは無関係に行われているようだ。
 私のパソコンでは,キー操作をホームポジションからまったく指を外さずにできるようにカスタマイズしていて,完全なタッチタイピングが可能な状態になっている。手元を見ずに文字が入力できるだけでなく,漢字変換や修正などの操作の過程をほとんど意識せずに文章作成の作業を続けることができる。
 撫でるようにして入力できるキーボードと指の動きをほとんど意識せずに操作できる環境は,頭に浮かんだことを素直に文章として表わすことを可能にしてくれる。だからといって立派な文章ができるとはかぎらないのは,ご覧の通りである。

2007年9月25日
CoverFlow

 iPod touchが届いた。Appleが予約受付を開始したその日の午前中に注文したので,たぶん日本で一番早く手に入れたグループに属すると思う。このことを自慢したい気持ちが無いと言えば嘘になるが,日記を起こしたのはiPod touchのアプリケーションにも採用されたCoverFlowについて述べようと思たからだ。
 CoverFlowは,本棚に並んだCDのコレクションを手で繰って気に入った1枚を探し出すような行為を,画面上でさせてくれるソフトウエアで,私はこれがiTunesに取り込まれる前から,これまでにお世話になったフリーウエアの中で最高のものだと絶賛していた。CoverFlowでCDのジャケットを繰る操作は,iTunes上ではマウスでドラッグすることになるが,iPod touchでは指先で触れて動かすようになっていて,勢いよく指を滑らせると一気に大量のジャケットが繰れるなど,現実的な感覚が一段と強まっている。
 CoverFlowはあくまでバーチャルな世界だが,こういった体験が現実とは如何なるものであるのかを考える機会を改めて与えてくれる。現実とは普段の生活そのもので,肉体と精神があまりにもそれに馴染んでしまっているため,違和感が生じることは普通はあり得ない。一方,バーチャルな世界は,そのできが良ければ良いほど,どこかにほころびのようなところを感じてしまうといった矛盾を抱えている。これらのことだけから簡単に導き出すべき結論ではないが,バーチャルな体験における違和感は,現実の中にも同様のものが存在している可能性を示しているように思えてならない。
 この辺りにも亜空間は潜んでいるようだ。

2007年10月7日
言葉2

 ローソンの前にあった店の話になった。会話はしばらく進んだがどうも話がかみ合わない。一方の話がローソンが建つ以前に開いていた店のことだったのに対して,もう一方はローソンの道を隔てた向かいの店の話をしていたからだ。「前」は時間を表す場合にも位置を表す場合にも用いられるが,この会話ではそれが混在していたわけだ。
 こういった食い違いは,話の文脈からたいてい判断できて誤解が長引くことはあまりない。ところが,上の例のようにそう簡単には行かない場合もある。
 抑揚の違いからでも判断が付きそうに思えるが,日本語の声調は中国やタイの言葉ほど厳密ではなく,それだけで意味が誤解されることも意外と少ない。関西と関東で発音の上げ下げが逆になる例として「箸」「橋」が取り上げられることがよくある。だが,会話の中で抑揚に不自然なところがあっても,「箸で食べる」「橋を渡る」のように簡単な文章になっただけでもで,何をそのように発音したかはすぐに理解できる。あるいは,日本語では抑揚が違っても仮名で書くと同じものになるので,理解しにくいときは瞬時に仮名に戻して納得しているのかもしれない。
 「前」のように,それでも誤解を生みやすい単語は他にあるだろうか。
 相手の使った単語が自分のイメージしているものと同じだと思いながら,話を理解しようとしている内,それが別の意味の言葉であったことに気付いたとき,わだかまりが一気に氷解する。この感覚は亜空間に通じるものがある。

2007年10月14日
手首

 敷居が手首に食い込んでおもしろいと嫁さんが言うので,何事かと思ってそちらを見ると,身体は和室でうつ伏せに寝ているのだが,頭はリビングルームとの境の敷居のすぐそばにあり,その敷居の上まで伸ばした腕のほうに顔を向けている。
 話だけでは何のことかわからなかったのだが,実際にやってみると本当におもしろかった。
 顔と至近距離にある自分の腕がものすごく細くなり,それに接している敷居が腕の細った分だけ手首に食い込んでいるように見える。肉体と物とがほぞを介して絡み合っている感じだ。融合する直前で互いの独立した姿がまだ残っている状態だともいえる。
 この現象は,縦にした腕の手首に鼻を付けるようにして見ると手首が極端に細って見えるという子供の頃の遊びと同じ類だ。だが,今回の場合は視線が向けられている腕に別の物(敷居)が接しているところが異なっていて,その効果で不思議さが増した現象になっている。
 腕が細って見える現象は腕に鼻を付けるようにしたときしか見えないと思い込んでいたので,新しい形で見せられたのには驚いた。そういえば,わざわざ手首に鼻を付けたり不自然なポーズをしたりしなくても,頬杖のように額に手をついているときも腕は細って見える。このような普段のよくある振る舞いの中にも同様の現象があるのだが,これまでまったく気付かずに過ごしていたことになる。ただし,この場合は腕は何にも接していないので,単に細って見えるだけになってしまうが。
 

2007年10月26日
亜夢15

 「窓から外を見ると,山の輪郭がいつもとは比べものにならないくらいくっきりしている。その山の頂上には,ものすごく派手な電飾で縁取られた山の高さの数倍ほどもある寺院や塔が並んでいて眩いばかりに輝いている。あまりにも現実離れした光景に,これは夢ではないかと思い,それなら飛べるかもしれないとプールの飛び込みの要領で身を投げ出すと床の上1メートルくらいのところに浮かんで滑るように進んでいく。その姿を見た嫁さんはまねると簡単に浮かび上がって一気にベランダまですいすい飛んでいった。
 部屋は11階にあるのでさすがに飛び降りるのはためらっていたら,嫁さんのほうが先に頭から飛び降り地面ぎりぎりの所で身を軽く翻して足からふんわりと降り立った。私もと続いて飛び降りたが目の前に地面が迫っても身を反転できず無様にも逆立ちの格好で何とか着地した。その後2人は並んで地上2メートルくらいの高さを人やいろんな物にぶつかりそうになるのをかわしながら進んでいった。手はスーパーマンのように頭の上に伸ばし,スピードを上げるときはバイクのスロットルグリップを回す仕草をしながら数分間の飛行を楽しんだのだった。」
 これは2年ほど前に見た夢で,普通の夢に比べると光景がはるかに明瞭なのと,飛ぼうとして飛んでいるのだから明晰夢ということになるのだろう。ところが最近,これは明晰夢のような夢を見たと言えないこともないと思うようになってきた。
 この夢でも,飛ぼうとしたところは自分の意志が働いている感じがしないでもないが,行く先や飛ぶ方向などは必ずしも意志に従っている感じがしない。どこかで作られたストーリーに従って演じているだけの気がする。飛ぶきっかけのようにいろんな場面で意図的に操作してみればいいのだろうが,夢が進行する中で,すでにそうすること自体に意識が働いていない感じがする。これは単に私の夢航海士としてのレベルが低いだけのことかもしれないが。
 この程度の明晰夢はたまに見ることがあるが,これまで「亜夢」で紹介した夢に比べると,意識の介入ははるかに少ないように思う。

2007年11月9日
階段

 階段を下りかけてよく思うことがある。ちょっと油断すると滑ったり躓いたりして転げ落ちてしまう恐怖に耐えて,このような複雑な行動をいとも簡単にこなしているものだと。近頃では踊ったりサッカーをしたりと人のような動きを見せるコンピュータ制御の人型ロボットも,ちょっと前は階段の上がり下りが技術的に困難だったのだから。
 階段を下りる途中で,頭上が気になってちらりと見上げたり足下に落ちているゴミをとっさに避けようとしたりして,危うく段を踏み外しそうになることがある。次の瞬間,足の行き場を失い,まさにたたらを踏む感じになる。落下の恐怖に襲われるからなのか,突然足の出し方に戸惑いが生じ,それまでの歩みとは随分違った足取りになる。
 別に足を滑らせたり躓いたりしたわけではないので,そんなに大慌てする必要はないのだが,次に進めるべき足の位置がなぜだか決まらない。1段飛ばして足を進めてしまい,さらに慌てることもある。寄りかかるようにして思わず近くの手すりを握りしめることもある。冷や汗が出ることもある。山道の石や木の階段なら段がかなり不揃いでも難なくこなせるのに,この程度の不測の事態にすんなり対応できないのはおかしなものだ。
 無意識に運んでいた足のコントロールを突然任された意識がうろたえるからだろうか。いつもは,瞬間の戸惑いなら身体がそれなりに反応し問題なく解決してくれているので,それが起こったこと自体気付かない。だが,ちょっと考える余裕があるときはつい意識が主役を演じようとする。ところが,荷が重すぎるのか,このように情けなくあたふたしてしまう。
 これは,意識せずに何の問題もなく行えていたことが,意識をしたためにうまく機能しなくなる事象の一例だろうと思う。野球やゴルフなどでフォームを意識するあまり自然なバッティングやストロークができなくなることも同様だろう。量子力学の創始者であるボーアが,この観点から,西部劇の決闘では必ず主人公が勝つことを証明している。「主人公から仕掛けることはあり得ないので,悪漢がきっかけを作ることになる。悪漢は銃を抜くタイミングを意識して決めなければならない。ところが主人公は悪漢の手が動くのを見て無意識に銃を抜けばいいので,いつも先に撃つことができる。」
 

2007年11月21日

 昨夜,12時半ころに布団に入ると,しばらくして嫁さんが朝の目覚めがいいようにといつもの通りベランダ側の窓のカーテンを10センチばかり開けてくれた。その瞬間,窓から強い光が差し込み,私の足下から布団の上を通り顔の真上を越える形で帯状に照らした。
 ものすごい偶然で,細く開けたカーテンの隙間に,寝ている顔の位置とちょうど向かい合うように月が出ていた。西に大きく傾いて弧を下にした上弦の月が煌々と輝いていたのだ。
 横になる前にあくびをした私の目にはうっすら涙が溜まっていて,目を細めて足下の月を見ると,仏像の目のように半分伏せた形をした月から私の顎あたりに向かって鮮烈な光の帯が放たれている。月は私にだけ光に載せてメッセージを届けているのではないかと思わせる光景だった。
 確か月までの距離は38万キロメートルで,光は1秒少しかかって届くはず。すると,瞬きした瞬間に現れる月と私を結ぶ光の道が完成する速度は光速を越えているではないかなどと考えながら眠りに就いたのであった。

2007年11月26日
道路

 初めて訪れた町では通る道の印象が往きと帰りで大きく異なることがある。通る方向が逆になるので建物や看板の見え方が違うことや,道の左右のどちらを主に見ていたのかなどがその要因になるのだろう。目的の場所を探しながら進む往きと,用件が片付いて戻るだけの帰りでは心理面でも違いがあるのかもしれない。ところが,何度となく通っているのに,往きと帰りでいつも印象が極端に異なる道がある。
 それは,大阪教育大学の正門から伸びている次の大きな通りまでの100メートルたらずの長さの道だ。往きは正門を背にして歩き,帰りはその道を正門に向かって歩くが,大学を背にしたときは次の道までの距離が長く,逆に大学に向かうときは短く感じられる。いつも異なる道を通っているような印象が何となくあったが,その違いがはっきりとはわからなかった。
 ある日,その道の途中で後ろを振り返って初めて気が付いた。大学の前では左右に2車線ずつ,合計で4車線以上の幅があるのに対して,大きな道路の近くでは2台の車がすれ違うのも難しいくらいの幅になっている。この短い区間で道幅が極端に変わって,道は縦長の台形状になっていたのだ。
 バロック建築で奥行きを強調するために錯視の効果を利用した一方から見ると長く逆からは短く見えるトンネル状の通路などがある。こういったものは本などで知っていたが,身近に同じ構造をした場所があるとは思いもしなかった。

2007年12月7日
検査

 7月の終わり頃の日記に,視野の一部に楕円の光が見えたことを書いたが,その後も月に一度くらい前と同じような楕円の輪郭がプリズムのように光ることがある。そのことと関連しているかどうかはわからないが,最初に楕円の光が見えた直後から,身体のいろいろな部分に痺れが生じるようになった。
 痺れというと表現が大げさで,起こる箇所や強さによって様々だが,日焼けして過敏になった肌に髪の毛が触れたような感じが近い。身体を動かしていたり何かに夢中になっていたりするときはそのような違和感を覚えることはほとんどなく,静かにしているときに感じる程度の刺激が多い。その刺激も永く続いても10秒くらいで大抵のは1秒以内に消えてしまう。それが頭のてっぺんから足の先まで,まさに所構わずといった具合で,あらゆるところに出る。それも,さっきは小鼻のあたりだったのが次は右足の土踏まずといったようにまったく不規則な出方をする。
 一日中ほとんど気にならない日もあったりしたので,この症状もその内消えるだろうくらいに思って放っておいたのだが,11月に入いると,違和感を覚える頻度が増したのとたまに痛みを伴うような刺激が現れるようになってきた。インターネットで同じような症例を探してみたが,不思議なくらいまったくといっていいほど見つからなかったのだが,一件だけ気になる記事に出会った。傍腫瘍症候群というもので,肺ガンが発見される1年前にそのような症状が現れることがあると書いてある。小心者の私は,早速済生会病院というところの神経内科で診察を受けた。
 ところがここの医者も,MRIで調べてもらったときの神経外科の医者と同じ見立てで,「特に異常があるとは思われません」と言う。ガンの疑いを尋ねても,端から相手にしない態度だ。取りあえず,神経系統の異常を確認しようということになって,神経伝達速度の検査を受けることになった。
 腕や足のいろいろな箇所に電気刺激が与えられるのだが,最初の一発は程度がわからなかったので「おっ」と声が出てしまうくらいの衝撃があった。刺激の強さは何とかやり過ごせる程度だが,肘の所を刺激されると腕が勝手に動くし,立て膝状態の膝のあたりを刺激されると突然足が跳ね上がる。
 自分の身体がこんなにたわいなくも操られるものとは思いもしなかった。繰り返される電気刺激による痺れや痛みより,マリオネットのように動く自分の手足の動きのほうが気になり面白く見てしまった。
 勝手に動く手足は,何もかもコントロールしているつもりの「私」にしてみると何ともふがいなさを感じる状況であり,「自分」にしてもまったく掌握できていないできごとである。私たちは意外と自然や環境などの不可抗力なものに操られている存在なのかもしれないと,ふと思った。

2007年12月17日
車椅子

 いつものように朝日を正面から受けながら勤務先へ向かって歩道を歩いていると,すれ違ったり通り過ぎたりする人や物の中で,動きのどこか違うものが視界にあり,なぜか非常に気になった。
 それは30メートルくらい前方の大きな旅行鞄程度の黒いかたまりで,早足で歩く私と同じスピードで進んでいて,それとの距離が一向に変わらない。舗装道路の逃げ水のようにいつも一定の隔たりがあって,決してそこには近づくことができないのだ。
 逆光で陰になっていたのでわかりにくかったが,黒い物体は電動の車椅子で,宙に浮いているのではないかと思わせるぐらい滑らかで音も立てずに進んでいて,真後ろから見ると微動だにしていない。
 自分の身体以外の周囲のあらゆるものが自分との距離を刻々変化させていく中で,自分と進むスピードを同調させているこの黒い物体の存在はどこか不気味で,運命の先導者に引かれている思いがした。

2007年12月31日
点滴

 このところ耳に圧迫感があって聞こえにくいときがある。これも楕円形の光が見えたり身体の様々なところが過敏に反応したりするのと一環のものなら,しばらくすると治まると思い様子を見ていたのだが,1週間経っても症状が変わらないので病院へ行くことにした。
 医者は治療の方法として2種類あると説明し始めた。けっこう美人の女医だが,その顔を醜く歪めながら,一つはゼリー状の薬だがちょっと口に入れただけでもえずく人がいるくらいえぐい物ですがどうしますかと聞いてきた。もう一つのほうはステロイド系で副作用の可能性があるという。仕方なくまずいが安全なほうを選んだ。
 ゼリーのえぐみを誤魔化すためにココア風の粉末がトッピング用として大量に付いていて,それを振りかけてスプーン2杯分くらいを掻き込むのだが,ゼリーのえげつなさ以上にココアの味が強烈で,その後口を消すために大量の水を飲まなければならない。このココアパウダーでまぶすと,あのおぞましい納豆でも抵抗無く咽を通るのではないかと思える代物だ。ゼリーだけではどれほどえげつないのかを試そうと一瞬思ったが,あの女医の引きつった顔を思い浮かべるととてもそんな勇気は湧いてこなかった。
 味覚が崩壊するのではないかと思わせる薬を我慢して律儀に1週間続けたのに聴力の改善は全くなく,次の処方に移り,ステロイドの投与を点滴注射で5日間受けることになった。医者から説明は受けたものの,体内に直接異物が注入されることの不安は付きまとう。
 点滴のチューブの途中に付いている短い試験管のようなカプセル状の容器の中を液体がぽたぽた落ちる様子を,突然止まったりどっと流れてきたりしたらすぐに枕元のボタンを押そうと身構えながらじっと見ていた。
 点滴がカプセルの上端から涙のように膨らんでは落ちるスピードが速すぎて途中の様子が見えないからか,その内,上から落ちているのではなくて,カプセルの下に溜まった液体が飛び上がって行くように見えてきた。時間が逆流していくように思える。あるいは天地が逆になっていて,ベッドと共に身体が天井側にあって,点滴はやはり重力の法則に従って落ちているのだと思ったりもした。