前向きのシートの電車で左の窓側に座っていたのだが,通路を隔てた窓のほうに目を向けると,同じ列の右の窓際に女性が座っていて鏡に向かって一心不乱に化粧にいそしんでいる。どうもはさみのようなものを鼻に突っ込んで鼻毛を切っているように見える。車内での化粧の様子は何とも見苦しい。狸や狐でも化けるところは見せないとされているが,人前で種明かしをしながら化粧というマジックを演じる神経には,いったい人の何が変わってしまったんだろうと考えさせられる。それも鼻毛の処理をするところまで来たかと思ってあきれていたら,真横からなので鼻の陰になってわからなかっただけで,まつげをカールさせる器具を右目に当てていたのだった。
これでもとんでもない行為で,羞恥心の有無以前に揺れる乗り物の中では危険きわまりないことだと思うが,多くの女性が平然と行っているところから考えるとささいな所作なのかもしれない。
女性のほうが大らかなのか危機意識が疎いのかはわからないが,よそ見をしながら歩いているのをよく見かける。つまり,身体が進む方向と周囲の状況を捉える顔の向きが異なっているのだ。そんな人と正面からすれ違うときは,こちらだけが慌てて身をかわして衝突を避けるといった場面になることがしばしばある。歩きながら携帯電話の画面に夢中になっているのも女性のほうが多い感じがする。新聞沙汰になることはないみたいだから,それでもそれなりに周りの様子がわかっているのだろうと推測できないわけではない。
亜空間も,男だからわからないだけで,女性には違ったものが見えているのかもしれない。
仰向けに寝ていて,その姿勢のまま腕を頭の上に伸ばして枕元に置いた腕時計を手探りで取ろうとすると,腕が捻れていて思った方向と逆に手が動いてしまいなかなか目的の物が見つからないことがある。
鏡に向かって,剃り残した一本のひげを間に合わせで爪切りで切ろうとすると,思うようにひげが歯の間に入らず,結局,鏡を見ずに手探りでひげを切ることになる場合が多い。
レオナルド・ダ・ビンチのノートのように左右が反転した逆文字を書く簡単な方法がある。額に紙を貼りそこに普通に正しく書くつもりで文字を書くと逆文字が見事にできあがる。
私たちはいったい何に信頼を置いて行動を決めているのだろう。百聞は一見にしかずとは言うが,上の例のように視覚がいつも優先されるとは限らないが場合もある。おそらくいくつもの器官が相互に頼り合いながら行動の方向を決めているのだろうと想像は付く。それが民主的になのか,淘汰によるのかはわからないが。
普段は少しも乱れを見せない器官の連合が,突然崩壊する様子が体験できる上のような現象に出会ったときは,大変面白く自分を見つめなおすことになる。
昨日,仕事で東京に入った。今朝ホテルの窓から外を覗くと雪が積もっていて,天気予報通りだったが何となくうれしく,関西では珍しい久しぶりの雪景色をしばらく見つめていた。
雨と違って雪は一様に降らないところが面白い。雪では,生成される過程の異なったものが地面近くまで落ちて来たところを同時に見ることになるので,様々な大きさのものが混在している。そのため,あるものは垂直に落ちているのに対して,あるものは横に流れていたり舞い上がっていたりしている。道路の真ん中あたりとビルの壁に沿ったところでは降る速度や方向が異なっているし,車が通って風圧で吹き飛ばされた雪の動きなども降り方に変化を付けている。
空間にばらまかれた点の集まりはそれだけで十分に奥行きを感じさせるが,降る雪のようにいくつかの方向に移動する点の動きは,縦横に絡み合う多様な空間のあり方を見せてくれて興味が尽きない。
豪雪地域では,雪は楽しむ対象ではないのだろうが,子供の頃から雪を見慣れている人には独特の空間概念が育っているに違いないと,舞い落ちる雪を見ていて思った。

駅に隣接する駐輪場で,蛍光灯が上部に付いたポールが何本も立っているのを見かけることがある。蛍光灯は水平に設置するのが普通だろうが,こういう場所では,広範囲を照らすためにか,斜め上方に突き出すように傾けて取り付けられていることが多い。
快速電車で駅を通過するとき,そのような街灯のそばを通ることになる場合がある。特に,その駅の近くで電車が徐行したりすると,樹の枝のように斜めに伸びた蛍光灯がおもしろい動きをするのに気付く。電車が駐輪所に近づくとき見えていた蛍光灯の突き出す方向が,その真横を通る辺りで急に大きく変わるのだ。まるで通過する電車に気付いて首をくるりと回して挨拶でもしているように見える。
斜めの状態の物で,しかもこういった街灯のように接する背景がなく空間で独立している場合は,その位置を定めにくい。定まる根拠がはっきりしないものに出会ったとき,私たちはどうも適当に取り繕うようにできているみたいで,取りあえず蛍光灯の方向は決まる。ところが見なした蛍光灯のその方向が事実と異なっていた場合,電車が進んで見る位置が変わり,壁などが蛍光灯の背景になって初めて正しい位置に落ち着く。
そのとき見せる蛍光灯の仕草が何とも面白い。見るほうが間違っていて,その認識を修正していることも忘れて楽しめる。
同じような現象は,高速道路に取り付けられている"J"の字を天地逆さまにしたような柱の照明灯でも起こる。その道路を走る車からではなく,少し離れた所にある高速道路を車や電車で移動しながら見たときに照明灯が首の位置を変えるのに出会うことがある。
数人で大きいテーブルを囲んで会議をしている最中に,地震の揺れを感じて全員が反射的に立ち上がった。次の瞬間,ある者はドアを開けに走り,ある者は外の様子を見るために窓を開けた。天井の蛍光灯が大きく揺れている。本棚の書類が落ちそうになっている。その内,テーブルの上の湯飲みが滑りだし,テーブルの長手方向に行ったり来たりを繰り返した。
夢の記憶はここまでだが,この後すぐに目が覚めたわけではなく,朝いつもの時刻に起きて,それからこの夢を思い出した。
マンションの11階に住んでいることもあって,小心者のぼくは睡眠中に震度1程度の地震があっても飛び起きてしまう。起きてすぐにテレビをつけてニュースで確かめるのだが,たいていの場合実際に地震が起きていて,寝ぼけていたわけではないことがわかる。
見たこの夢はけっこうリアリティーのあるものだったが,そこで飛び起きることはなかった。だが,このことを考えると,頭の中と現実の違いをどう判断しているのか不思議に思えてくる。映画や小説では,恐ろしい夢を見た登場人物が顔から滴るほどの汗をかいて,がばっと起き上がる場面によく出会うが,地震の夢はこれとはどこか違うのだろうか。

先月の終わりから1週間ほどタイを旅行してきた。バンコクの郊外にとったホテルでは,部屋の天井が窓を通して空の青い色が染まり,窓側から奥へ向かって淡くなるグラデーションになっている。一方,部屋の入り口側からは電灯の照明が天井を赤の光で窓に向かって薄らぐグラデーションで照らしている。この2つの色はベッドの真上あたりで交わるが,色の明快な境界が引かれているわけではなく,互いに自然にとけ込んでいるように見える。
帰りの飛行機は早朝に関空に着く便で,機内から見た朝日が昇る直前の水平線近くの空は文字通り目が覚めるような美しい色をしていた。水平にどこまでも長く伸びたオレンジ色と空色がほとんど接していて,その短い隙間がグラデーションで繋がっている。
これらのことが引き金になって次のことを考えた。


前方から朝日を受けて勤め先への道を歩いていた。歩道の脇にいつもはぎっしり詰まった状態で並んでいる自転車が,休日だからかまばらに置かれている。普段は煩わしいだけで特に関心もなく通り過ぎる駐車自転車だが,何故かその日は自転車の影が気になった。
太陽の光を横から受けた自転車の車輪の影が異様なくらいに大きく地面に落ちているのだ。立て看板や自分自身の影が地面に伸びているとき,長いという印象はあっても大きい感じはあまりしない。だが,自転車の車輪の影は,とても太陽の光で自然にできるわけがないと思わせる大きさのものがタイヤの下から地面に広がっていた。
ビルなどの壁に並ぶ窓の形はどこから見ても長方形に見えるが,実際には真正面以外から見る場合はすべて歪んでいて,網膜には長方形ではない四角形が映っている。長方形と見なすことに慣れた窓を違った意識でとらえようと努力しても長方形以外の形に見ることは難しいが,斜めから撮られたビルの写真の窓の部分だけをはさみで切り取ってみると,長方形とはずいぶん違った形をしていて驚かされる。
マンホールの蓋などの円形の物も,真正面から見る以外は網膜には楕円形に映っているはずだが,普通は円形と感じ取っている。そして楕円形の長手方向を直径と見て大きさを把握している。地面に落ちた自転車のタイヤの影もそういった認識の延長上にあるのだろう。楕円形と見えていれば単に円が細長くなったと感じるはずだが,円形と見なしてしまうために,影の長手方向が直径の実物より大きな円形の影に見えてしまうのではないかと思う。
家の風呂で湯に肩まで浸かってくつろいでいた。ふと足のほうに目をやると,細長い淡いベージュの2センチくらいの物が浮かんでいる。立てた両膝の間で軽く合わせた手の平の前に浮かんでいるように見える。それが何なのかあれこれ推測をしたが,それらしい物の見当が付かない。
湯船で見えるものを分類すると次のようになる。
a)湯の表面に浮かぶ物:抜け毛,埃,泡
b)湯の中にある物:自分の身体,湯船,それらに付いた泡
c)湯の中で浮いている物:抜け毛,埃
d)湯の表面で反射した像:湯の外にある物(壁,天井,照明器具,蛇口,壁に付いた水滴など)の像
このように湯船では物の在り方や見え方が様々で,しかも,どれがどの状態なのかが明瞭でないままそれらが混在している。
しばらく考えていて,わずかに手が動いたとき初めてその正体がわかった。
右手の中指と薬指の間がわずかに開いていて,そこかを透かして湯船の壁のベージュ色が見えていただけのことだった。分類でいうとb)で,もっとも単純な状態かもしれないが,気が付かなかった。ただ,この場合は狭い指の間を通して見る単眼視の状態になっているので,湯の中でなくても奥行きは不確定になる。
湯船と単眼視の組み合わせで,見抜きにくい状況ができあがっていたことになるが,気付くまでの数秒間を楽しむことができた。
先日,新装のレストランへ入った。内装,料理,接客のどれも今風にデザインされていてまずまずだった。
トイレを借りたがそこも小綺麗でおしゃれな感じに作られていた。便器も最新のもののようで,操作ボタンがこれでもかと言わんばかりにいっぱい並んだパネルが壁に取り付けてある。用をたして,水を流そうとレバーを探したが見つからない。飛行機や新幹線のトイレのように手の平を近づけると水が出る仕様かと思い,壁中を見回してスイッチを探したがそれらしいものもない。改めて壁のパネルを丹念に見ると,隅のほうに「大」と書かれたボタンと「小」と書かれたボタンがあり,一件は落着した。
水の量を示すのなら「多」「少」がふさわしいと思うが,この「大」「小」は何の区分を示しているのだろう。子供の頃から使い慣れているので抵抗は全くないが,よく考えるとおかしい言葉づかいだ。調べたわけではないが,このような形容詞で使い分けているのは日本語くらいではないだろうか。
このように本来の分類とは不似合いな形容詞を付けて区分する例は他にないかと探したが見つかっていない。思いついた方は是非知らせていただきたい。

赤外線ヒータの付いたやぐら型こたつなどで,コンセントに繋ぐコードの途中に付いているこたつスイッチと言われる物がある。その操作部分に「ON,OFF」とか「入,切」と表示されていることが多い。例えば「入,切」のそれぞれにボタンが付いている場合は,スイッチを入れるには「入」を,切るときは「切」を押すことで特に問題はない。ところが,スイッチが1つだけでそれをスライドさせて「入,切」を切り替える方式の場合は,一方の文字だけが表示され他方は隠されているので戸惑うことがある。「入」が見えているときは,今スイッチが入っているのか,「入」のほうにボタンをスライドさせればスイッチが入るのかが明快ではないからだ。
夕食のビールが効いてきたのか,横になってテレビを見ている内にうつらうつらし始めた。このところ毎度のことだ。知らない間に目を閉じている。さすがに目を開けたまま眠ることはない。だが,耳や鼻などは眠るために閉じることはない。この違いは不思議だ。
居眠りをしていて目が覚めたとき,テレビの音が異様に大きくて思わずボリュームを下げることがある。眠る前は気にならなかったわけだから,それほど大音量ではないはずだ。いびきが本人には聞こえないことから考えると,寝ている間は音が遮断されていて無音で,それとの対比で大きく聞こえてしまうのではないだろうか。
軽く目を閉じてすぐに開けたつもりなのに,数時間が経っていて驚くときがあれば,結構ぐっすり眠った気分で目を覚ましたのに,時計の針がほとんど進んでいないときもある。眠っているとき時間の感覚はどこに行ってしまっているのだろう。
テレビを見ながらまどろんでいると,テレビの内容を追っている夢を見たり,ちょっと目覚めてテレビを見たり,とりとめもないことに思いをはせたり,ちょっと目覚めてテレビを見たり,何も考えていないかったり,ちょっと目覚めてテレビを見たりと,これらが入り交じって時間が経過していく。夢と現実と意識が紡ぎ出す世界は,摩訶不思議であると同時に心地いい。日常の有り様も基本的にはこれと同じではないかという思いが強くする今日この頃である。
先日受けた定期健康診断の視力検査で,適当にこたえていたら左目の数値が去年より0.2上がった。思わず担当の看護婦に当て物みたいですねと言って笑われた。
大学受験の時,それまでよく見えていたぼくの視力は,たいした勉強をしたわけでもないのに,左右とも0.4まで下がっていた。だが,仮性近視なら遠くを見ているだけで直ると信じて,眼鏡を掛けずに4年間過ごした結果,両眼とも1.5まで見事に快復した。その後,加齢と共に視力は下がってきていて現在0.5だが,普段は眼鏡を使っていない。映画鑑賞用に作った近視用の眼鏡をごくたまに掛けることがあるが,そのときは裸眼に比べて周りの物が確かにくっきりして立体感が強くなっているのがわかる。視力のいい人にはこのように見えているのかと思うことはあるが,だからといって,日頃その眼鏡を掛けたいとは思わない。裸眼の視力に慣れていて特に不自由を感じないからだ。
亜空間が見えないと言う人の中には,近視,遠視などの視力や,左右の視力差が激しいこと,乱視,斜視などを理由に上げられる場合が案外多い。自分以外の人に世界がどのように見えているかを直接知ることは残念ながらできないので,その人が語る見え方を一方的に受け入れるしかない。だが,日常生活をある程度普通に営めている限り,あるいはこれまで生き延びてこられていること自体が世界をそれなりに整合性のあるものとしてとらえられている証拠になる。すると,誰でも亜空間を発見する機会がやはりその人なりにあるはずだと思う。
同じものを見ても一人ずつ見え方は異なっているのかもしれないが,これも検証はできない。見たものについて他人とコミュニケーションが成立しているところから推測すると,見え方に大差はないような気がする。だが,亜空間のことなどを考えると,大切なことは共有できていないようにも思われる。見えている世界は光学的に目に映る像で構築されたものではなく,脳が作り上げたシミュレーションだということから考えても,他人の見え方は,現実を反映した客観性のあるものだとも言えるし,勝手に作り上げられたものだとも言えて,なおのこと結論から遠のいてしまう。
ドラマなどで,顔に汗を滴らせて目覚め,また同じ夢を見たと言って起き上がるシーンがよく出てくる。
まったく同じではないが,状況がよく似た夢は結構見ている気がする。ぼくの夢には,中学生のころから30才くらいまで住んでいた家とその町並みがちょくちょく出てくる。この家の夢では,階段で二階へ上る途中で,上には想像を絶する恐ろしい何かが待ち構えているように思え,とてもそれに耐えられない気持ちから叫び声を出して,横の布団で寝ている嫁さんに起こしてもらうことがよくある。
恐ろしい夢かどうかは別にして,家に関しては,住んでいたころの印象が強く残っていて,その記憶が再現される形で何度も現れるのには納得がいく。ところが,住んだことも行った覚えもない家もぼくの夢には何度も出てくる。これはどういうことだろう。
夢のその家は結構な大きさの屋敷で,部屋数も多いが,間取りなどはいつもだいたい共通している。家の一番奥が居間で,50畳くらいの広さがある。その部屋と玄関の間に襖で仕切られた8畳程度の和室が10ばかり配置されていて,子供部屋だったり,親戚が住んでいたり,書庫だったり,物置だったり,骨董を飾っているだけの部屋だったりとどれも何らかの特徴をもっている。
ところが,毎回のように,どこかの部屋の襖を開けたとき全く新しい部屋が発見されて,自分の家なのに知らない部屋があったことに驚くことになる。この驚きは,夢の中で思っているだけの場合もあれば,目覚めてから感じるときや,夢と覚醒とを何度も行き来しながらまどろみの中で思うときもある。
鞄に入れていつもノートパソコンを持ち歩いていて,通勤電車でも新幹線に乗ったときにもワープロ代わりによく使用する。
夜,新幹線の列車の窓から外に目を移すと,膝の上で開いたノートパソコンとそのキーボードに手を置いた自分の姿が窓ガラスの向こうに見える。自分の身体だけでなく座席や照明など車内にあるものはどれも外の暗さに馴染んだ状態で映っている。ところが,テキストファイルが開いていて明るいはずのパソコンの液晶画面の部分だけが真っ黒になっている。思わず手元に視線を戻すと,通常と変わりなく,画面は白く輝き,打ちかけの何行かの文字がくっきり表示されている。改めて窓の向こうを見ると,やはり,画面のはずの部分がすっぽり抜け落ちていて,無限に広がる暗黒の入り口のように開いている。
液晶画面には,横から覗かれても見えないようにフィルムを張っている。窓に映った画面が黒く見えたのは,このフィルターの影響で自分のパソコンを自分が横から覗く状態になっていたからだ。
それにしても,他のものはそれらしく映っている窓の外の世界で,パソコンの画面それだけが存在を消し去ったかのように見える状態は,手元や周囲にあるものが示す現実感との対比で,そこに虚構が横たわっているように思わせる。
このとき,夢の中に現れた人物を確認するためにその顔を覗き込むと,それまであったはずの目鼻が無くなっていて,暗闇がそこに広がっている様子を思い出した。
決して良いことだと思っているわけではないが,いつも歯磨きは寝る前や食後ではなく朝起きたてにする。子供のころに付いた習慣が今も続いているわけだが,そのかわり洗面所で鏡に向かって5分くらいかけて丁寧に磨く。
この間にその朝見た夢を思い出すことがよくある。他の機会と比べて,夢の記憶が意識に登るのは,何故かこのときが圧倒的に多いように思う。
脳がいくら優秀だといっても,瞑っていた目を開けた瞬間や振り返った瞬間に網膜に映る光景を間髪を入れずにとらえきることは不可能だと思える。脳が瞬時に光景をとらえていると意識することは別の問題だが,少なくとも,予定調和的に出来上がった日常の世界をとらえるよりは余分に時間がかかるのではないだろうか。
同じことが,鏡に映った世界をとらえるときにも言えて,像が反転している鏡の中の状況を日常の文脈としてとらえるには普段より時間がかかるのではないかと思う。意識は,普通,情報が整理されるまで待たされた後,その間の時間が調整された途切れのない世界を見せられるが,情報量が過多のときには齟齬が生じる。その間隙に見えるものは,脳がまだ整理し切れていない段階のものであったり,それが突破口となって繋がった忘れてしまっていた夢だったりするのではないだろうか。
先日,ソル・ルウィット氏の訃報に接した。4月8日に78才で天命を全うされたようだ。ご冥福をお祈りします。
氏の作品は,池袋の西武百貨店の最上階に美術館があったころ,その脇の画集やポスター専門の店で購入したニューヨークでの展覧会のカタログで初めて知った。その本は,前半がキューブシリーズで,後半はドローイングやマンホールの写真などで構成されていたが,特に白い立方体が積み重ねられた作品の圧倒的な存在感に強い衝撃を受けたことを思い出す。
キューブシリーズの作品はどれも複合的な空間を感じさせるが,中でも初期の作品の立方体になりきっていない形で構成された作品は,鋳型に空間が多重な状態ではまりこんだ様子を示していて,空間が持つ多次元性をそこから感じ取ることができる。また,柱のようなフレームだけで形作られた白い立方体が前後左右上下に幾重にも並べた作品は,物ではなく空間そのものが3次元の形態を持っていることを強烈に意識させてくれる。
群衆の中にどこか見覚えのある人を見つけ,近づいてその人の顔を覗き込む。すると,その顔からそれまで普通にあった目や鼻などの部品が突然文字通り四方に飛び去り,のっぺらぼうの顔だけが残る。こういった夢をこれまでに何度も見たことがある。
人を外見で見分けるとき,顔が決め手になる場合が多いと思う。では顔の何が確認できれば人を特定したことになるのだろうか。変化に富む表情の内,その人を特徴付けているあるものが読み取れたときだとすると,それ以外の表情の場合はその人ととらえられないことになる。逆に,その人が持つすべての表情が確認されないといけないとしたら,それだけで膨大な時間が必要になる。おそらく実際には,これらの中間の状況に応じたところで手が打たれているのではないかと思う。一つに限定しきれない顔をイメージとしてとらえることによって,普段の生活は成り立っているのかも知れない。そう言えば,顔の絶対的な確認をすることも,またその必要に迫られることもまずない。
夢では,現れた人が誰なのかのはっきりした証拠をつかむ以前に,すでにその人はその人として成立してしまっている。目覚めてから,どうして誰とわかったのかを考えても,理由が思い出せない。たいていの場合は,顔に部品があったのかすらも怪しくなってくる。典型のないものに対しては応えようがないというのが夢の表す正直な答えなのかもしれない。
また,次のような夢も何度か見たことがある。新聞を読んでいて,記事の内容は理解できている。ところが,その記事の見出しを確認するために顔を近づけると,見出しの大きな活字が突然四方に飛び散って白い紙面が後に残る。
これらの夢が認識ということの意味を暗示していて,それが夢の世界だけではなく普段の物事の認識の場合にも当てはまることであるような気がしてならない。
最近はごく細い川でも川岸に柵が設けられていることが多い。川沿いの道を歩くと,垂直のパイプが等間隔に並んでいて,手前の柵と向こう岸の柵とが重なった状態に見える。柵は歩くテンポに応じてちらちらと明滅してモアレが現れる。
モアレの現象に出会うと,小学生の頃毎日のようにかよった珠算塾のことを思い出す。当時は習い事の種類はあまりなく,塾といえばそろばん学校のことを指すくらいで,夕暮れになると多くの子供が珠算塾に集まって来た。その塾は民家を簡単に改造したもので,二階の二間の仕切りを外して教室にあて,下では経営者の家族が普通に生活を送っていた。授業は一時間ごとの入れ替え制で,前のグループが終わるまで塾の玄関先の路上でよく遊びながら待ったものだ。
夏場は暑さしのぎに玄関の引き戸が開けっ放しになっていたが,中を覗かれないように入り口の庇にすだれが掛かっていた。細い葦を水平に並べた薄茶色のすだれで,下半分を上に折り返すように紐で手繰ってある。そのため,上半分は二重になっているのだが,下側の引き上げかたが適当なので,少し傾いた状態で重なっていて,その部分にモアレが現れた。
夕暮れになると部屋の電灯に明かりが入る。薄暗くなった道路からすだれを通して塾の中を覗くと,すだれの隙間から見える電球の光を背景にしてコントラストが強調されたモアレが不思議な模様を作り出していた。夕風が吹いてすだれが揺れると,重なった状態が微妙にずれてモアレの模様が激しく変化する。その様子を飽きずに見とれていた。
モアレはいろいろな場面で見られる,格子や網目などの繰り返し模様が重なるところには必ずと言っていいほど現れる。モアレは再現性があってわかりやすい亜空間だと思うが,これも気に掛けられることはあまりないようだ。
そのときも毎晩寝る前にしていることを繰り返した。まず,コンピュータの電源を手順通り切り,部屋の照明を落として寝室に向かった。そして,布団の上で,枕の位置が左右の中央になるように定め,枕の右隣に腕時計を置いて,それからタオルケットを腹まで手繰って仰向けに横になった。
しばらくして目が覚め,今の一連行為が夢の中のできごとだったと気付いた。
夢は何故か,普段の生活を再現したようなものでも,内容に日常とは滑稽なほどかけ離れた部分を持っている。トイレに入ると,いつの間にか壁が無くなっていてすぐ横を車が高速で走っていたり,夜空を見上げると綺麗な星が出ているのはいいが,星の横に星座名が書いてあったりと,夢のストーリーをわざと台無しにするような部分が必ずと言っていいほど含まれている。
ところが今回のは日常そのままだったので逆に驚かされた。
普段の生活がそのまま繰り返される夢は,目が覚めたとき,ほとんど変わりのない日々が繰り返される人生の断面を覗き込んだ気になり,意外と印象深く心に残る。
新幹線で東京へ出かけることが多いが,いつも二人掛けの窓側に席を取り,疲れていてもパソコンを膝の上に載せて取り留めのないことを打ち込んでいる。とは言っても,一心不乱に入力しているわけではなく,窓の外を何気なく眺めていることも結構多い。
先日は東京からの帰りで,静岡駅を通過するころには夜もすっかり更けていて,窓の外には車内の様子がくっきりと映っている。当然その一部にぼくの像もぼく自身と肩を寄せ合うように並んで座っている。
キーボード入力は一応タッチタイピングができるので,両手は常に行儀よくホームポジションに置かれている。その姿がぼんやり眺めていた車外の景色に中に映っている。体やパソコンを透かして街灯や車のライトが過ぎて行く。何故か「〜〜すがるせつない瞳のような星がとぶとぶ〜〜」(作詞 横井弘)という『哀愁列車』の一節が三橋三智也の声で頭の中を繰り返し流れている。
そんな中で,パソコンの傾きを直そうとして左手を前方に動かしかけて驚かされた。反対側の右手が動いたのだ。
動かそうとした左手は実際の手で,動いて驚かせたのは窓に映った右手だったのだが,像の右手を動かそうとして,本当の左手が動いたのかもしれない。
窓に映った車内の様子に没頭して見入っているとき,線路脇の電柱が突然現れて乗客の体を貫通して行っても驚くことがないように,現実との差異は頭のどこかで常に判断されていて仰天することはない。だがこの時は違った。鏡に映して見る自分の像が左右反転していることにまったく抵抗なく鏡を覗けるように,左右対称な体の構造は鏡に映った像に対する感情移入を容易にしているのではないだろうか。
普段このような角度で鏡を見ることはあまりないからかも知れないが,左右対称のものを鏡に横向きに映した状態には,意外なおもしろさがまだまだ隠されていそうだ。
トイレに入ると,薄っぺらいドーナツ状の便座の部分だけが床に直接置かれている。その穴へ紙を丸めて投げ入れると,落ちるところがないはずなのに紙は消えてしまう。不思議だと思った途端これは夢だと気づいた。そこで起きようしたが,すぐに金縛りになり,いつものように叫び声を上げて目をさました。
友人と歩きながら,先ほど見た便座の夢をおもしろおかしく話している。すると,どこからともなく「もう気付いても良いのではないか,夢は物語だということを。」という声がとどろいた。
そこで,「そうか。物語なのだから,ストリーに矛盾があっても,それは作者の意図で,取り立てて問題にするほうがおかしいのだ。」このようなことを半分眠りながら考えていた。
以上の話は,トイレの夢が先にあって,それから何時間か経って別に見たのが天の声の夢で,うつらうつらしながらこれについて考えたのは2つの目の夢の直後のことだが,これら全体を面白いと思ったのは,明け方はっきり目覚めてからのことだ。
いくぶん涼しくなってきたので,先日の夕方,久しぶりに自転車で郊外に出かけた。
傾き始めた太陽の光を頬に受けながら自転車を走らせていると,少し長くなった影が真横に伸びていて,それがサーカスの曲乗りで使うような大きい車輪の自転車のように見えて大変おもしろかった。少し前に「日記」の『影』で書いた自転車の影が大きく見えるのと同じ現象だが,地面に置かれた物とは違って,自分がバカでかい自転車に跨ってペダルを漕いでいると思えるのはなかなか楽しいものだ。
そのとき走っていたのは古墳を取り込んだ公園の外周の道で,歩道の片側には1メートルほどの垂直に近いコンクリートの石垣が続いている。車道の左端を走ると,右側から差す光ですぐ横にある歩道の部分に車輪の影が落ち,自分の上半身の影はうまい具合に石垣に落ちる。そのために,影は,体の部分は等身大に近く,車輪のところだけが引き延ばされた形になり,いかにも大きな自転車に乗っているように見える。
車輪の影を細長く引き伸ばされた形ではなく大きな円としてとらえる理由は前の「日記」に書いたとおりだろうと思うが,人の体も少々伸ばされたくらいではその変化がほとんど気にならないものだということを改めて知った。そう言えば,テレビの縦横比の関係で上下が圧縮されたように映っている人の画像が,しばらく見ている内に違和感を覚えないものになるが,これも同じようなことかも知れない。
近頃は,町中で無造作に置かれた土管を見ることがなくなったが,ぼくが子供の頃は下水工事で埋める土管が道端にむき出しでよく置かれていた。土管といってもコンクリート製だが,いろんな大きさのものが横たわっていて,中には立ったまま入れるほどの太さの土管もあった。
そんな土管の側面にボールを当てて一人でキャッチボールをよくした。ボールが当たる位置によって跳ね返る角度が大きく変化するその意外性が面白かったのか,暗くなるまで遊んでいた。また,土管の内側にボールがスクリューを描いて進むよう転がしたり,土管の中で何度も跳ねるように投げ込んだりして,土管の向こう側にいる友達と飽きもせず投げ合ったのを思い出す。
土管を覗くと,その穴を通して見える光景は単に景色の一部のはずなのに,周囲の景色とどこか違ったように感じられる。それも,土管に首を突っ込んだときに見える円形に切り取られた部分だけの景色より,土管から数歩離れたところから見た場合の周囲の景色と同時に見える穴の向こうの世界のほうに強く違和感を覚える。

特急の窓側の席に着いて出発を待っていたら,通路から30才くらいの男性に「あのー」と声を掛けられた。見知らない人物だったので,てっきり座席番号を間違えたかと思ってチケットを確かめかけたところ,ぼくの顔を覗き込んでしげしげと見ながら「梶本さんですよね」と言ってきた。違うと応えても,その男は首をかしげてしばらく顔を凝視したままで,数秒経ってやっと「失礼しました」と言いながら,疑念が張り付いた顔と共に去って行った。
これまでに,友人や親戚の者にタレントの誰それに似ていると言われたことがまったく無いわけではないが,それらは冗談混じりのことで,今回のように顔をきっちり確認した上で他人と間違われたのは初めてだ。世間には似た人が何人かいるというファンタジーめいたことを聞くが,信じたくなるような出来事だった。
ぼくは人の顔をとらえるのが苦手というかその脳細胞がないのではないかと思うほど覚えられない。そのため,何度も会っている人に,すれ違ったとき無視したり,改めて名刺を渡したりすることがよくあって,たぶんかなり多くの人に非礼をはたらいているのだろうと思っている。
その裏返しで,覚えかたがいい加減なのか,人違いすることもしばしばある。だけど,声を掛けるところまで行ったことはこれまでにない。顔がそっくりでも仕草や雰囲気がどこか違っていたり,何より目が合ったときの相手が無反応だったりすることから,間違ったことを察知するからだ。
そう考えるとなおのこと,電車で声を掛けてきた人の行為は気にかかる。また,その人のことも気になる。その人にとっては覚めない夢のような出来事だったのではないだろうか。強烈なデジャブを感じたに違いないと思う。
今考えると,「ええ,梶本です」と応えておけば面白い展開になったと空想するが,後の祭りだ。
朝,久しぶりのものすごい霧で,通勤電車のダイヤが大幅に乱れた。
いつもなら車窓からは,地球温暖化が影響して旬が今頃になった紅葉で埋め尽くさた山並みが見えている。だが,この日は濃霧のため,線路から2,30メートルくらい離れた所にある家や田畑がようやく判断できる程度だ。
電車の進行にしたがって,白く霞んでほとんど無彩色の景色が窓の外を淡々と通り過ぎる中で,線路沿いに植わっている木立の現れ方が面白くて夢中になった。
濃霧の影響で徐行する電車のスピードに合わせて,樹々が入れ替わり窓に現れる。
現れ始めたときは厚い霧に沈んでいて無彩色だったものが,接近するにしたがって徐々に色を帯び,目の横に来たときは鮮やかな色を見せて通り過ぎて行く。爽やかな山吹色や燃えるような臙脂色の落葉樹,まだ新鮮な緑のままの常緑樹が次々に姿を変えて通過して行く。中には枝いっぱいに実がなった柿の木やミカンの木もある。普段は見落としている線路沿いの樹々が存在を取り戻しているのだ。
霧が,ものを白く覆い尽くして見えなくするだけでなく,普段見ていないものを改めて見せる役割をするとは思いも寄らなかった。日常の混沌の中ではいかに見ていない部分がたくさんあるかということなのだろう。
交差点の直前で信号が赤になったので,ぼくが乗っているタクシーは停止線をわずかに踏んで停止した。5メートルくらい前を100人くらいの人が途切れなく渡って行く。どういう訳かこの横断歩道では誰もが例外なく右から左に移動している。シートの左側に座っていたぼくからは,助手席の大きめの枕が視界を塞いでいて前がフロントガラスの上半分からしか見えないので,通行人の胸から上だけが整然と一方向に動いているように見える。
そんな行列の中に,他の人の3倍くらいのスピードでやはりスムーズに進む人がいて,その動きに視線は釘付けにされた。それは同じような上半身の行列の中で時間を超越した存在であって,他の通行人すべてをビル・ヴィオラのビデオの世界に閉じこめてしまったように見えた。
高速で動くこの上半身が横断歩道を渡りきり,横の窓から全身が見えるようになってやっと謎が解けた。自転車に乗っていただけのことだった。
車や鳥などが動くものを追い抜いていく光景はありふれているが,それを特に面白いと感じることはない。だが,今回のように窓がフレームになって視界が制限された状況では,通常の速さで進むものとそれを追い抜くものとの相対的なスピードに特別な関係が生まれるからか,興味深い現象が見られる。
映画やテレビでは,映しだされるスクリーンや画面そのものが周囲との境界にフレームを設けている。そのせいか,テレビで見る競馬では,ゴール前の直線で疾走する何頭もの馬をさらに高速で追い抜く馬の映像にものすごい迫力を感じる。陸上競技のリレーなども同様で,アンカーが何人かをごぼう抜きにする場面では息を凝らして見ることがある。トップに立とうとするランナーをカメラの中央に固定したアングルでは,追い抜かれたランナーは後退してフレームの端から消えて行く。ただし,それはカメラが引かれて全景が映っている場合より,追い抜くランナーの全身がちょうど画面に収まる程度の大きさのときのほうが圧倒的に効果がある。
フレームは世界を単に切り取るだけではなく,その外との繋がりの可能性を強く暗示する役割もしているようだ。