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2011年8月9日
引っ越しのご挨拶

 今日でこの「日記」は終了し,新たに設けたブログ「亜の扉」で亜空間の現象などを紹介することにしました。そちらをご覧下さい。(ホームページの「B」ボタンが入口になります)
 この引っ越では,またまた奥谷さん(パズライトゾーン)のお世話になりました。
 「日記」では,内容が「亜空間」の現象に限定的でしたが,ブログでは,「亜空間」の範囲をその薫りがかすかに漂う地平線まで広げて,現象とその周辺を案内しようと思っています。

2010年9月6日

 現在我が家は安普請のリフォーム中で,家財を六畳の一室に積み上げてこの猛暑の中そこで地獄のような暮らしを強いられている。水も風呂場とトイレに制限されていて,口をゆすぐのにもわざわざ風呂場の水道を使わなくてはならない。
 ところが,この風呂場の水道が今回の日記のネタを提供してくれた。
 この水道の蛇口は足下から50センチくらいの高さにあり,栓を半ひねりもすると水が切れ目なく棒状になって落ち,真下の排水口まで届いている。
 棒状の水といえばすぐ思い出すのが,できた当初から大好きだった阪急三番街の地下2階にある噴水だ。ノズルから飛び出した水が放物線を描いて落下するだけのものだが,水はその間弓状に曲がった棒のような形を保ったまま移動して泉に潜り込むように消えていく。この様子はいつまで見ていても飽きないほどだ。
 また,子供のころデパートの催し物で見たこんなことも思い出した。水差しが大きく傾いた状態に細い針金で目の高さに吊られていて,その口から水が真下に置かれた甕に流れ落ちている。水は水差しからなみなみと注がれていて水流は途切れることなく太いパイプ状の透明なアーチを形作っている。甕の口から水はあふれ出ていて,天井から吊られた水差しにはどこからも水が供給されていないのに際限なく流れ出しているように見える。当時,このトリックはなぜかすぐに見破ってしまって,一緒に見に行っていた友人に自慢したように思う。
 さて,風呂場の水道だが,途切れなく落ちる水を蛇口のすぐ下で両手に受けたとき初めて気が付いた。それまで流れていた棒状の水はどこへ消えたのだろうかと。手で受け止めたのだからそこから下に水が流れないのは当然だが,水の流れを遮った瞬間に手より下にあった棒状の水の塊はどこへ行ってしまったのだろう。
 ものが50センチの高さから床に落ちるまでの時間は0.3秒くらいなので,落ちる様子が目に止まらないわけではない。だが棒状の水流が落ちて行ったようにはとても見えない。それまで存在した棒状のものが突然消えて,そこに新しい空間が出現したように見える。手で遮る行為が水流の運命を過去に遡って書き換えてしまったようにも思える。
 この行為は何度繰り返しても棒状の水は突然姿を消す。何とも妙で面白い現象だ。

2010年8月12日
勘違い

 近ごろは,新聞はもちろんのこと本でも雑誌でも文章を斜め読みすることが多く,とんでもない理解をすることがたまにある。適当に単語を拾い読みしてだいたいの意味をとらえるのだが,たいていの場合すんなり読めていると思う。間違ってとらえた場合は,前後の文と矛盾するので,不自然な文脈と感じた段階でそのあたりを読み直せばよく,まず問題は起こらない。ただ,間違い方によって傑作な場合があってこれがこれで面白い。
 Webのテキストも同様で,好き勝手に斜め読みしていることが多い。先日,Webの新聞のスポーツニュース欄で,トップの見出しが
  「石川遼,全米プロ選手権へ初練習」で,2行目の見出しが
  「興南15安打猛攻、春夏連覇へ好発進」と並んでいた。
それを勝手に”石川遼15アンダー”と読み,ものすごい成績やなと思ってしまった。
 「安打」を「アンダー」と間違えるところは自分でもなかなかだと思うが,間違いを正当化しようとする意識が働くところが面白いので,この手のものは日記に書こうと思っている。

2010年7月4日
シェード

 相変わらず同じ電車の同じ場所に座って通勤しているが,このところ日差しが強いので座席に着く同時に窓のシェードを下までいっぱいに降ろす。
 窓枠の下の部分に肘を置いて頬杖をつくと,頭がシェードに寄りかかるようになる。その格好で斜め前方の車外の風景をしばらく見ていると,目の前にあるシェードが厚みを持ったように前後に二重にずれた。最初はシェードの縦縞の繰り返し模様が偶然に立体視になったのだろうと思ったが,シェード全体が浮き上がるだけでなく,浮き上がった状態のものと元のままのものの両方が見えている。視野の中心あたりは手前に浮いたシェ−ドに隠れて後ろのものは見えないが,目に近いところになるほど浮いたほうは透けてきて後ろのシェ−ドが鮮明に見える。つまり,目に近いあたりでは浮いたシェ−ドと元のものが数センチの空間を挟んで共存している。
 この現象を不思議に思いながら楽しんでいる中で,視野の中心に近いところに蚊の死骸のような小さな黒い影がシェードに張り付いているのに気が付いた。先ほど述べたシェードが二重にずれるような現象は,これまでに体験したことがなく,このときもシェードのどの部分を見ても起こっていたわけではない。ところが,この黒い蚊を見つめてから視線を移動させると,シェードは必ず二重にずれていて,蚊とそれがへばりついたシェードは見事に手前に浮かぶ。
 至近距離のものを極端に斜めの位置から見つめているという特殊な状況だからだろうか,これまでに体験した立体視とはかなり様子が異なる。『現象』で紹介しているグリッドの立体視がこれと少し似ているが,この場合でも,ページをめくるように見えるが,同時に二重に見えるのではなくいつも一面だけが見えている。
 立体視もまだまだ奥が深いことを思い知らされた現象だ。

2010年5月17日
残像

 樹の葉の隙間から直接太陽を見つめてしまったときのように,強い光が目に入ったときはどこを見ても光の残像が現れる。その影響に慣れて忘れかけたころでも,瞬きをするたびに光は蘇り,消え去るまで結構永く残像を見ることが出来る。また,点いている電灯に止まった虫をじっと見つめた後などでは電灯の形の残像が見える。残像が消えない内に壁や建物などの遠くにあるものに視線を向けると,そこに大きさの対比でものすごく拡大された電灯のシルエットが映るのを楽しめる。
 これらの現象にはかなり強いインパクトを受けるのではないかと思うが,それに対して次の残像はどうだろう。
 上の写真で,キーボードのすぐ向こう側にある1センチほどの幅の白い帯状のものは,数字キーのあたりをしばらく見つめていた後で,キーボードを手前に少し引き寄せたときにキーボードがあった部分に現れたキーボードの残像を表している。視線を数秒止めてものを見つめる行為は日頃頻繁に行われていて,そのたびに残像効果が出ているはずだが,この程度の現象では残像はすぐに消えてしまいなかなか目に止まらない。
 映画の一コマ一コマがとぎれとぎれに見えないのは残像効果が働いているからだが,このことは普段目にするどんな物にも残像が伴っていることを示している。だが,日常でこの効果を意識している状況はどれくらいあるだろうか。このことに気が付くのは始めに述べたような特殊な場合に限られ,生活のあらゆるところに現れる現象としてとらえているわけではない。
 このようなことも無駄な状況把握と考えると,「私」が感知するまでもなく処理されてしまっている現象の部類にはいるのかもしれない。「私」が関心を持つのは際だった現象で,目立たないものは「自分」が無視するのと同時に「私」も注目しない。「自分」は何も無視しないのかもしれないが,些細なことには身体が反応しなかったり記憶に残ることもないことから考えると,無視と同様の扱いになっているといえるように思う。
 だからなおのこと,このような日常と紙一重の差異に見られる現象に注意を向けることが出来れば素晴らしいと思う。

2010年4月2日
容器

 数年前から,ヨーグルトを食べることが多くなった。始めは抵抗感があったヨーグルトも次第に慣れてきて,今ではプレーンなものに小さく切った果物を載せたりしてそれなりに口に運んでいる。
 先日の朝食ではテーブルに左のヨーグルトが置かれていた。シール状の蓋をめくって外すと,プラスチックの容器の中程にヨーグルトらしい白い面が見えるが,その上に非常に澄んで透明なものが載っていて口近くまでいっぱいに詰まっている。これにはゼラチンか寒天以外のものを思いつかなかったが,あまりにも透明度が高くて物質の感じがまったくしない。
 しばらく眺めていて,これは容器の口からヨーグルトの表面までの間にある空間そのものを見ているということに気付いたが,この面白い現象を長持ちさせるために視線はずらさず見続けた。
 容器の中に現れたこの空間の塊は強固で,ばれているのに正体を簡単には表さない。顔の位置を少しずつずらして行き,ヨーグルトの白い上面が容器に接しているところが見えて初めてこの亜空間は姿を隠した。
 口が広いこの容器はビール瓶のように肩が付いていて,その陰になってヨーグルトの輪郭線が見えなかったために現れた亜空間だ。どこにでもありそうな現象だが,うまく輪郭線が隠れる位置から覗き込むようにして見る機会はあまりないように思う。

2010年3月2日

 写真は今朝いつもの通勤電車で最寄りの駅を出てすぐに窓から見えた光景で,空から地面に向かって真っ直ぐ雲のようなものが降りてきていて何事かと思った。
 最初は火事か煙突の煙ではないかと考えたが,その白い物の端と地面とは何十メートルも離れている。次に竜巻ではないかと目を凝らしたが,動いている様子がまったくない。車内を見ると,龍が降りてきたのではないかと思えるほど不思議な現象なのに誰一人気付いていない様子が逆に不思議だったが,消え去る前にと急いで空の状態を携帯のカメラに収めた。
 次の駅に着く頃になっても白い線はくっきり残っていたが,電車が移動した分横から眺めることになり,初めて事実に気が付いた。空を横切るように白い線が弓状に引かれていて,これはどう見ても飛行機雲だ。
 この雲くらいの隔たりになると奥行き感が無くなってしまうのと,直線状に見える位置から偶然見てしまったことが一時を楽しませてくれたのだろう。
 それにしても,おもしろい現象を発見してわくわくしたのは「私」だと思うが,そのとき,「自分」はこの程度の異変は身に危険を及ぼさないとして,それとも正体を見破っていて泰然自若としていたのだろうか。

2010年2月23日
湯飲み

 空の湯飲み茶碗をテーブルに戻すとき軽くひねって置くと,湯飲みは自転しながらゆっくり輪を描くように動いて,止まりそうになりながらなかなか止まらない状態が続くことがある。うまく行くとふらふらしながら1分間くらい回り続けることもある。『亜空間の現象』の『コード』のアニメーションでコーラの缶がくるくる回るシーンは,この湯飲み茶碗の動きを取り入れたものだ。
 ごく軽く回転させながら傾けずに置くのがコツで,強く回しても倒れやすいだけで永く回るわけではない。回転が順調に行く場合は,湯飲みの糸尻がテーブルにほとんど着いて今にも止まりそうになっているのに,次の瞬間底が少しずれるように動いて生命力が蘇ったかのように回り続ける。
 ほとんどの湯飲み茶碗は,工夫して回してもすぐに倒れるかまっすぐ立ってしまうかして面白味に欠ける。滅多に出会わないが,縦長の湯飲みの中にはゆっくり回って不思議なほど止まらないものがある。
 このようないったん止まりそうになってまた回りだすような,予想を裏切る動きはたいへん興味深い。普段目にするほとんどの物の動きは直線や円や放物線状程度で,次の瞬間の位置や動きが簡単に予測できてしまう。だからなのか,予想を裏切る動きに出会うと,そのときわずかに緊張が走るが,視線はそこに釘付けにされ,場合によってはユーモアすら感じてしまう。
 物事の推移を予定調和的に見てそこに生じる破れを無視するのは「自分」だろうが,その破れ目に注目して楽しめるのは「私」でしかないと考えると,こういった遊びに対する「私」の役割は捨てたものではないと思えてくる。

2010年1月23日
IMAX3D

 昨日,上映最終日だというので『アバター』を見てきた。ネットで調べると,4種類ある3D方式で全部見たという人がそれぞれの特徴をていねいに書いていて,それによるとIMAX3Dが圧倒的に立体感があってきれいな画像だというので,箕面の109シネマズまでわざわざ出かけた。
 内容はインディアン側から見たSF版西部劇みたいなもので取り立てて言うほどのものはなかったが,3Dの効果とCGを駆使したアクションだけはものすごくて,お尻も痛くならず最後まで楽しめた。
 3D映画は,スクリーンから手前に飛び出す映像はたいへん面白く,こちらをめがけて飛んでくる物には思わず顔を除けてしまうくらい空間との一体感を感じる。ところが,スクリーンより奥を表す空間はある程度の効果は認めないわけではないが,平面の映画でも同じような表現ができるように思う程度だ。また,アクションが熱を帯びれば帯びるほど見るほうの感情移入が本格的になり,3Dかどうかは大した意味を持たないようになってしまう。3D映画はこれまでにもいろいろ上映されたが,その都度話題にはなってもブームにも定番にもならず終わってしまっている。『アバター』もそうなりそうな気がする。
 ここのIMAXのスクリーンは上端が天井に下端が床に接していて,天井から床までいっぱいに隙間なく映像が映し出されている。そのスクリーンのエンドロールで,キャストやスタッフ名がゆっくり上に流れて天井に消えていく様子を見ていて,ふとスクリーンと接している天井の端に目を向けると,天井が軽く下向きに曲がって落ちてきている。床の端も曲がり下向きにめり込みそうになっている。
 これは文字のスクロールによる残像効果で滝の逆流錯視が生じたものだが,映画の3Dよりこの錯視のほうが遙かに面白かった。

2010年1月11日
半透明

 新幹線で,前の座席にいる人の肘が窓の枠に置かれていて,姿は背もたれの陰でほとんど分からないが,濃紺の上着の袖と白いワイシャツの袖口と軽く握った手だけが見えている。そして,そのすぐ横の窓には,上着と手首から先は背景にとけ込んで消えていて,白い袖口だけが景色の中にくっきりと宙に浮かんだように映っている。
 電車は山肌が線路近くまで迫っているところや遠くまで見わたせるところなど様々な光景の中を通過する。それに伴って窓の外は明るさを変え,窓の向こうの袖の白色はその対比で鮮明になったり淡く消え入りそうになったりする。背景の明るさに負けてまったく見えないこともあるが,ほどよく淡いときは半透明になっていて,袖口の白を透かして背後の建物や山並みが見える。背景に溶け込んで消えたかと思うと突然鮮明に姿を現したり,見え方の変化にグラデーションをかけたかのようにスムーズに濃さが変化して像が存在を主張したりするなどの目まぐるしい移り変わりは飽くことを忘れて楽しませてくれる。
 これとよく似た現象は,普段はほとんど気にならないが,ガラスによる反射などが無くても常に目の前で展開されている。
 手を顔の前に持って行きその手を通して背景の建物などに着目すると,手が二重に見える。その状態で左右の目を交互に瞑ると,手の位置がそれぞれで異なっていて,違った状態を見ているのがわかる。左右の像で共通な部分は不透明だが,それ以外は半透明になっていて背景が透けて見える。
 よく見るとこの像の共通部分は現実にはあり得ない奇妙な形になっているが,普通は左右どちらかの不透明部分をそれに加えて自然な手の形としてとらえている。これは脳内で行われる左右視野闘争の結果だけを見せられているわけだが,窓に映った車内の様子などの場面では,光りの変化に応じて透明の度合いが変わるので,視野闘争の過程を覗き見ているように思えて面白い。